悔しいくらい「アオイソラ」

tmrowing2014-08-12

朝から、和文英訳について「呟いて」いて、『英語青年』の追悼特集などに言及していたら、あろうことか、Robin Williamsの訃報が舞い込みました。かれこれ10年、ライティングの基礎基本の習熟には、obituary (追悼記事) の比較検討が有効、と説いて授業でも扱ってきましたが、著名人というだけでなく、自分自身が大好きで、尊敬する人の場合に、こんなにも辛いものだとは思ってもいませんでした。

過去の obituary 指導例として、比較検討の後書かせたドラフトに対するフィードバックの提示方法を示しておきます。
「例」チャールズ1.jpeg 直
「例」チャールズ2.jpeg 直

そうこうしているうちに、ラジオでは、 『見上げてごらん夜の星を』が流れてきて、一気にセンチメンタルに。そうです、今日8月12日はあの事故が起きた日だったのです。合掌してばかり。合唱の方が楽しいに決まっているのにね。
Robinについては、もう少し落ち着いてから改めて書きますのでご容赦を。
全国英語教育学会・徳島大会からどうにかこうにか帰ってきました。
前回のエントリーにも書いたように、台風11号の直撃を受け、2日目のスケジュールが大幅に変更しただけでなく、発表予定だったにもかかわらず、徳島に来ることができなかった方が多数いらっしゃいました。
前夜祭で珍しく遅くまで起きていたので、体調は万全とは行きませんでしたが、初参加の初日のプログラムで、自分の興味関心の高いものには大体出ることができました。研究発表と事例報告は発表・報告自体が20分、質疑で5分、移動で5分というとても慌ただしいものでした。さらに、その途中で高速移動して、ちょっと中途半端な理解に終わったものもありました。それでも、若い方たちの勢いというのでしょうか、研究に対する「熱」のようなものに触れるというか、まだまだ日本の英語教育も捨てたものじゃないと思う内容にも出会えたことは嬉しく思いました。
その一方で、教室の学習者を何だと思っているのか、「それはアカンやろ!」というものもあり、こういう研究発表が業績となり、それがその人のキャリアで評価され、新たなポストに繋がっていくのかと思うと、やるせない気持ちにもなりました。

東京で働いていた時分にお世話になった方々にもご挨拶。
中でも、非常勤になった頃にあれこれと気遣っていただいていた緑川先生に近況を報告できたので少しだけ安堵。帰りのタクシーまでご一緒させて頂きました。本当に有り難うございました。
私が、今回参加しようと思った「お目当て」は、2日目の「ワークショップ」でした。
当然、スピーキング系とライティング系の両方に出られると思って大会に申し込んだのですが、スケジュールはこの二つが同時並行。しかも、台風の影響で、ワークショップの時間が短縮され、研究発表や事例報告と同時開催という状況の中、

  • 山岡大基先生の「まとまりのあるライティングの評価法」

を選んで参加してきました。
60分に短縮と言うこともあって、参加者同士の協議の時間が取れなかったのは残念でしたが、「教室の現実」、「教師の現実」そして「生徒の現実」をしっかりと踏まえ、きめ細かく準備された資料の解説を聞くことができました。WSの最中に、一部資料を映して呟いてみたりしましたが、あまり反響はなかったようです。高校段階でのライティングの指導経験が「受験指導」だけに偏っているような場合には、今回のワークショップは物足りなく感じたかも知れませんし、「自己表現」に重きを置いた指導を進めている方にとっては、「面白味」がなかったかも知れませんが、私には、「評価法」の前段階の「指導法」で新たな地平というか、可能性が見えて、とてもワクワクできた60分でした。
スピーキング系のWSには出られませんでしたが、収穫はありました。

『英語教師は楽しい』(ひつじ書房)
IMG_4834.JPG 直

編著者直筆サインです。ありがとうございます。

さて、
今回の徳島では「読むこと」と「書くこと」の統合を謳う発表を複数聞きました。「読」が主でそれを深め生かすため「書」を取り入れると、「書」がそれほど得意ではない指導者の「書」の指導に課題が残るのは当然のことです。学習と同じで「統合的」なアプローチが機能すれば効果は顕著だろうけど、うまくいかない時は一つずつ片付けるでしょ?だからこそ、単一技能志向の研究者、実践者から学ぶことは多いと思うのです。「横並び」ではない、ヨコ糸の紡ぎ方です。
「読」と「書」の統合的活動で、読ませてから感想や意見を書くとか要約するというのは「読者」と「社会性」が抜けているわけです。現実性は後付けとしても、 anf先生のいうように「書店でつけるpop」とか、「非密林・脱密林レビュー」とか「新作映画のtrailer」とか、書き手を巻き込む仕掛けは大事です。そういう意味では、「書」をメインとして実践してきた側から、「いかに読ませるか」というタスクデザインに当たって、「読」のエキスパートに助言を求めるとか、コラボを図るといったところに、新たな地平へと突き抜ける可能性があるように思います。それぞれの強みをつなげてまとめることですかね。

他方、今風のライティング指導をやってみたのだけれど、うまくいかない。なぜか?そもそも個々の文がダメ、という反省からの仕切り直しアプローチで、「和文英訳」という形式での英文産出を指導や調査のために使っているものがありました。ただ、振り出しで「和文英訳」という形式に依存しているのに、その「和文英訳」そのものの先行研究、日英対照での指導法の概括さえおこなっていないのではないか、という印象を受けました。これは、「書くこと」の指導・研究の時系列、歴史的概観、継承の問題ですから、タテ糸の紡ぎ方の問題ですね。
こういうのを見てしまうと、「和文英訳」は本当に不幸だな、と思います。京都大学の入試問題などでは、諸悪の根元、悪の権化のように扱われる一方、lexical choiceやsyntax、 sentence level accuracyを「視る・診る」ために初学者レベルでさえ「頼られて」いるのが現状。お願いですから、もっと丁寧に扱って下さい。諺でも、”Even a worm will turn.” っていいますから。ぞんざいに扱っていると、そのうち、しっぺ返し喰らいますよ。
私は1988年位から「ライティング」を主に指導してきたので、「経験知」が相当に偏っていることを予めお断りしておきますが、失敗する指導の多くは「課題設定」に難があります。「よりマシ」な課題設定のためには、

そもそも人はどんな時に、誰に向かって(または誰にでもなく)、何故、どんな言葉を、(喋るのではなく)敢えて書くのか?

を考えることです。
教室では「話せば済む」ことが多いので、書く「動機付けと維持」と「読者の設定」に関わる要因を全て満たすことは無理。本当に、「無理」ですよ。だから、「無茶」してはダメ。そうではなくて、どれだけ「その気」にさせるか。教室のソトの言語使用をそのまま移入するのではなく、「もっともらしさ」を受け入れる「書く共同体作り」の工夫をすることから。
教室での「学び」がちゃんと成立しているなら、たとえpedagogicalな活動が主であっても、その学びのジャーナルを「自分のことば」として綴るだけでも「ライティング」は生きた言語使用となるでしょう? Leni Damが自身の教室で90年代に見せてくれたのはそういうことだったはず。Leni の授業実践が pedagogicalな活動ばかりだ、という意味ではないので念のため。

このあたりは直ぐに入手でき読めますので是非。
Autonomy in language learning: The answer is learner autonomy, Issues in Language Teaching and Learning. [Kindle版]
http://www.amazon.co.jp/dp/B00GY7JDN8/ref=cm_sw_r_tw_dp_6bD6tb0A8HX1J

倉沢栄吉&大村はま、David Little & Leni Damのように、優れた研究者とベテランの実践者がコラボする研究・実践が増えるといいのになぁ、というのが正直な感想です。天唾ですけどね。私のよく知るところだと、長沼君主&永末温子のようなコラボをもっと見たいけれど、一般的には、高名な研究者とその弟子筋の実践者が多いのかなぁ、というという印象を持ちました。きちんとした「師」がいる、ということは受け継いだ「志」があるということですから、それはそれで尊いのですけれど。

閉会行事には出ずに、駅へと急ぎましたが、JR高徳線が運休したままで、4時間以上待ったのですが特急が動かず、結局延泊することになりました。2時くらいにはホテルの空室で安価なところも沢山あったのですが、5時を過ぎる頃にはどんどん埋まっていき、結局、2日滞在したホテルに泊まることに。普通なら、延泊だから気兼ねなく飲み食いでも、と思うところですが、ここで一気に疲れが出て飲みは断念。豚バラと生卵の入った「徳島ラーメン」は食べて帰らねば、と「食い意地」だけ張った後、翌朝に徳島を発ちました。
お世話になった方々、ご迷惑をおかけした方々、全ての皆様に感謝して、全国初参加レポートを閉じさせて頂きます。
冒頭の写真は、二日目に延泊を決め、ホテルに再度チェックインした直後に見上げた「そら」です。

本日のBGM: Road and Blue Sky (原田知世)