「息」を繋ぐ、「息」を生きる

先週の高3でのスモールトークから。
授業開始時の挨拶で号令をかけ、礼をする際に、誰かのお腹が鳴ったので、

  • 今何か妙な音がしなかった?

と問うところから、「空耳」へ。『グラセン和英』では、

  • I must be hearing things.

の用例に、「通例進行形で」という注記があるので、進行形の一時性の話しを挟んで、最近よく耳にする、見間違いとしての「空目」で、seeへ寄り道して、「空耳」の時制へ戻り、

  • 空耳だったに違いない。

をどうするか、<大関のhave + ed/en形>の助けを借りる、というところで余談へ。
そもそも、なぜ「空」なのか?その時の「空」はそもそもどんな意味なのか?国語辞典も活用し、空の語義・語源から色即是空へ。
別な日の、高2でのスモールトークから。
体育の後の時間だったらしく、教室の戸を開けて一歩踏み入れたときに、いわゆる「汗拭きシート」の臭いがしたので、完全には入室せず、敷居を跨いだ状態で静止。窓を見る。が、現在はグラウンド改修工事の最終局面で表はノイズの海、山なので、窓を開け放つと授業に支障を来すレベル。

  • いいんですよ。私が我慢すれば済むことですから。

と冗談めかして礼と着席。で、

  • 「臭いを我慢する」っていうときは、英語ではどんな動詞を使うの?

と問うと、

  • Stand!

という声が複数の生徒から。流石です。おそらく、 standとput up withでの書き替えなどを模試などで目にしたことがあるのでしょう。

  • では、「私は教室の嫌な臭いを我慢した」って「過去」の文脈だと、standを使って言える?

というところから、助動詞との共起制限や疑問・否定の文脈での使用という「制約」についての話し。
辞書の解説や用例を経て、

  • have to の過去形のhad toの活用

へ。<had to 原形>は、確かに助動詞だけれど、「限りなく事実に近づく」感じがする、と補足。
で、「学級文庫」の活用。stand, endure, put up with, tolerate の肝である基本語のacceptへ。
今回は、Activatorを軸足として提示。ここからどう広がるか期待しましょう。
余談で、put up の語義と用例での定番、

  • 立方体の展開図

の図を描いて解説。廊下にある傘立てに、ビニール傘があったので、それを教室に持ち込み、

  • put up an umbrella

をデモ。put up することで、「ハリを持って機能する」という「感じ」がしたでしょうか?

  • それぞれ・そのうち・それなり

ですよ。

  • 明示的知識は使えないからダメだ、

という人が英語教師の中にもいるのですが、「頭でっかち」になってしまうからダメなのであって、「頭が身体まで降りていく」のであれば、何の問題もないと思うのですね。
辞書の語義や語法の記述で、全ての語を暗示的な言葉遣いによる記述のみで行うとか、全ての語を絵や写真などの図解だけで行うということが必ずしも適切ではないことは、それこそ「実感」として分かっているはずでしょう。

現任校の進学クラスを対象とした安田登先生の特別授業。生徒にも保護者にも、教員にも、そして安田先生にも好評のうちに第2回が実現。有り難いことです。全部をお知らせすることはできませんが、

  • 能の (物語の) 基本構造
  • 象形文字と身体性と「心はいつ生まれたか」
  • 奥の細道とパラレルワールド

など、盛りだくさん。
個人的には、

  • 鼓と笛の話し

が印象的。
これは、休憩時間の雑談から出てきたエピソード。安田先生が、

  • 笛を買ったという人に訊くと、「これは新しいですから、250年前に作られたもの」といわれたりします。

というので、私が、

  • 笛の外も外気に触れたり、温度変化や手で触って油や汗で変化するのでしょうが、中は「吹く息」で変わっていくということなのでしょうか?

という質問をしたことを受けて、授業再開の冒頭でしてくれた話し。

楽器は「師」から買うのだが、ある日「あなたもそろそろこれを使いなさい」と渡される。で買う。吹く。初めは鳴らない。10年くらいやっていると音が出るようになるが、それは自分にとって気持ちよくない音。なぜなら「師」の息によって作られた音が出る笛だから。それからさらに10年…とやっていると段々「自分の音」が出てくるようになる。で、自分の息で自分の笛になった頃、「あなたもそろそろこれを使いなさい」と弟子に渡す。能は、そうやって50年250年と「息を繋ぐ」ことをやってきたのです。

こういう「学び」が成立する学校にいてよかったと心底思ったのでした。
正業の英語教育に引き寄せた物言いですが、学校英語教育の批判や否定で「英語を勉強すること」を殊更に貶め敵視する人がいます。いくら「ルサンチマン」とはいえ、そんなに「硬直した学習観」でしか英語教育を見られないのだろうか、と訝しく思います。学びは豊かであっていいのですよ。そして、その豊かさは「それぞれ・それなり」、そして、多くの場合「そのうち」なのです。鼓は買ってから50年経たないと音が鳴らないというのですから。
紋切り型の構図に依存するのか利用するのか、その「心根」とか「魂胆」はわからないけれど、「旧態然とした」英語教育に対して、自分の指導法や施策の優位性を説くのは構いません。ただ、その方法以外に「それぞれの地域、学校、教室、生徒、そして先生」にとって適切な指導法や施策がある、という思考の余白=余裕が欲しいと思うのです。

正業の土曜日課外、午前中90分2コマで3時間を終えて、湖へ。
小雨の中、2時間弱の乗艇練習。シングルスカルでレースに出る予定の選手が、フィニッシュ後のドロップダウンがいい加減で中途半端なフェザーになっていたので、オフセットを少し拡げて、スクエアワークの徹底。叫び続けましたよ。ダブルスカルの方は、乗り合わせを変えて試していますが、今日の組み合わせは直進の精度が低すぎ。いくら、既に雨に濡れているとはいえ、「沈」からの回復はメニューには入っていないんですよ!撤収後、選手を駅に送り届けて帰路。

いったん帰宅後に床屋へ。ちょっと無理を言って、終業ギリギリに入れてもらいました。深謝。

  • 日に焼けましたね。

といわれたので、国体の成績報告など。
遅めの夕食はちゃんめん。生姜をたっぷりといれてもらい、スープも飲み干しました。

遅ればせながら、

  • 『多聴多読マガジン』10月号 (コスモピア)

を読む。「大特集」と銘打っての、

  • 描写・説明・意見

監修が意外にも田尻悟郎先生でした。
今話題の、

  • スピーキングテスト

の比較対照ができる一覧表は長沼君主先生。読んでいて、思い出したのが過去ログ。

この記事から、もう7年が経っているんですよね。
東京五輪まで、あと7年なのでした。

この秋の読み比べは、私の世代にとってはお馴染みの、村田聖明。

  • 『最後の留学生』 (図書出版社、1981年)
  • An Enemy Among Friends (講談社、1991年)

後者は英文です。

英語教育の世界では、このような「息」はきちんと受け継がれているのでしょうか。

ひやおろしを味わって就寝。

本日のBGM: Bewitched, Bothered and Bewildered (Jeff Lynn)