Etymologyに思う

『英語教育』2月号(大修館書店)の特集で竹岡広信氏が「語源を利用して効果を上げる」と題して、予備校での語彙指導を披露している。「語源による指導で、注意している点」として上げられているポイントは非常にいいことが書いてある。ところが実際の指導のようすを読む限りではどうにも腑に落ちないところがある。たとえば、

  • 語源を厳密に分析するあまり、かえって複雑にしてしまうことは避ける。(中略)語源はあくまでも「暗記の手がかり」として伝えることが肝要。(p.29)

というのだが、「丸暗記」と「暗記」はどう違うのだろうか? In-を「上に」とやるから生徒は語源が嫌になる、in-は「中に」と覚えさせた方が能率が高い、というのだが、<invent = 中に来る>と解説されることでどの程度、inventという語が覚えやすくなるのだろうか?

  • 語源による解説は「覚えやすい」うえに「面白い」。生徒の英語に対する興味を引き出すには最善の方法ではないかとさえ考えている。(p.30)

というのだが、私には語源による解説が新出単語を覚えやすくするとは思えないのだ。むしろ、覚えた単語同士の共通点に気づかせたり、忘れにくくしたりするのに効果的、ということなのではないだろうか?
竹岡氏はこの調子で、今月の『AERA English』(朝日新聞社)でも、語源の蘊蓄を傾けている。気になるのは、そこで取り上げられている triumphの語源解説。

  • 語源から考えていくと tri-は3,最後の-ph-は、「言う」を意味します。ちなみに、”telephone”も”emphasize”の-ph-も「言う」を意味しているんですよ。つまり、”triumph”は「3回言う」という意味。では何を3回、言うのでしょうか?日本では万歳を何回しますか?そうです、「万歳三唱」ですね。3回言うのは「勝利」の歌なんです。その時に使う楽器がトランペット。もうわかりますね。トランペットは”trumpet”で”triumph”が変形した単語です。(p.64)

この解説は恣意的に過ぎないだろうか?私はetymologyには詳しくないので、いつも辞書のお世話になっている。
たとえば、triumphは、次のような簡潔な解説。

  • ギリシア語 thriambos(お祭りの行列の際、酒神バツカスに対して歌う讃歌)(『ハンディ語源英和辞典』小川芳男編、有精堂、1961年)

もう少し詳しい変遷を辿るなら、Klein’s Comprehensive Etymological Dictionary of the English Language (1967) あたりでも繙けば、ラテン語の triumphus = solemn entrance of a general into Rome after an important victory に由来していること。さらには procession in honor of Bacchusという意味のギリシア語がラテン語に入る際に母音交代があったことなどが書かれている。
竹岡氏は実際には様々な資料を分析した上で、生徒の記憶に最も資する語源分析を採用しているのだとは思うのだが、この雑誌で紹介されている解説は諸手をあげて賛成と大きな声で唱える気にはなれない。
私が授業でことさら語源に頼ることをしないのには訳がある。初学者にとっては、語源の解説は常に恣意的に映るのだ。丸暗記を避けるための恣意的な規則の暗記がいつになったら体系となるのか、その見通しが、初学者には立たないのだ。
例えば、「-ph-は言う」となるのだとしよう。では、phoneとphotoの区別はどう説明するのだろうか?phase/ phantom/ phenomenon/ emphasizeというくくり方で覚えた語を整理するのがいくら有効だとしても、なぜ、philosophyの最初と最後の-ph-は「言う」という意味にはならないのか、ということは誰も教えてくれないのだ。私は、philosophyと、philologyという語を覚えている者が、-philo-に共通点を見いだすことが無駄だと言っているわけではない。上智大学が Sophia University で、洋書も扱う書店の名前が Logosだという知識を活かすような指導も時には有効であろう。ただ、そのような語源の解説によって単語を覚える方法が「最善」とか「最高」とは限らないということを言っているのだ。
語源辞典や語源学者たちがなぜ神経質すぎるほど、由来や成り立ち、出典に拘るのか、といえば、恣意的な結論や俗説を出来る限り避けるためであろう。学習に役立てば、信憑性は二の次というのであれば、語呂合わせとなんら変わりはないのだ。
上述の辞典の「凡例」で小川芳男氏は次のように書いている。

  • 語源は出来る限り簡潔に示し、語源のための語源的説明を避け、終始与えられた語の現代的語義を学習者に対して明らかにするような記述の方法に努めた。従って語源を示すことによってかえって学習者に学習上の負担を与えるおそれのあるような場合には思い切って省いた。

知性に訴えるのは結構である、しかしながら語源学にしろ言語学にしろ、衒学的であってはならないのではないか。
本日のBGM: I can hear the river (Don Dixon)

※2014年6月4日追記:

語源の森を散策するのも結構なのですが、ちい散歩ならぬ、「恣意」散歩で初学者を煙に巻くのはもうそろそろやめにして、謙虚に考察を進め、内省を深めて欲しいものです。

wordwizardというサイトのタイトルが意味深ですが、「私だけが知っている」ということなど、言葉の世界にそう多くはないでしょう。この投稿主(↑)も、次のリンク先のギリシア語の語義に関する記述を読めていたらよかったのに、と残念に思います。