「解法」からの解放を!

某社主催の東大入試特別講義に参加。本来高校生・受験生対象のイベントなのだが、自分の作った教材の入っているシリーズの販促イベントでもあるので、様子を伺いに出かけてみた。
「いまをときめくカリスマ英語教師が東大入試の過去問を鮮やかに解く」という講師のデモ授業にはさほど興味はなかったのだが、周りを見てみると、「xx高校でやっているのと同じ解き方で」という言葉に集中力をかき立てられる高校生は多いようだ。某社も、この講師を前面に押し出してセールスにつなげようという意欲の表れか、若い社員など、取り巻きのようになっていてあまり心地よい感じは持てなかった。
さて、過去問を料理する講義編では、東大の段落・文整序問題の解法を扱ったのだが、読む力を養成する英語の授業と問題が解けるようにする「解法」の伝授ではまったくやっていることが違うのだなぁと認識を新たにした。
「15分以上かけられないんだから、内容・中身まで細かく読んではダメ」「パラグラフ読みに徹する」とのこと。結局問題は解けても、どんな文章で主題はなんだったかはよくわからないまま終わってしまった。「中身まで読みたかったら読んでも良いけど、その間に他の受験生はどんどん先の問題に行ってしまうぞ」と言われると、高校生は不安になるのでしょうね。もっとも、この講師の普段の授業では、解法講義の後、全訳を配って、家庭学習で音読を徹底させるのだとか。やはり、こういう企画ものだとgimmickyにならざるを得ないのだろう。
私も高校の専任のころ、公立・私立問わず高3の受験演習などを担当してきたのだが、努めて、問題を解くよりも、英文を読むことの方に主眼を置いてきた。なぜか?それは出題された英文をきちんと読むことの方が、問題に答えて正答を得るよりも難しいからである。「パラグラフリーディングでは、段落の最初と最後の文に線を引いて、そこを読み、冠詞や代名詞、名詞の数などと時制を手がかりにキーワードを把握する。」といったところで、これから読みの力を養成していく高校生が、その下線を引いた箇所をどうやったら読めるようになるのか、ということを考えれば、所詮は「その英文が読める人が、どう読んでいるのか」ということを示しているに過ぎないのだ。きちんと読めるから、主要な情報と周辺情報がわかるのである。高校段階のどこかで精読をやらなければ、いつその識別ができるようになるというのか。テストの答え合わせだけしているような授業はまずいだろう。
全国的に有名な私立の進学校では高校入試の段階で、平均的な公立校の2年生レベル(といわれる)英文を課して生徒を選別している。単純に考えれば、このデモ授業が成立するのは、高校に入ってくるときにすでに高2レベルで、そこから2年間授業で読みのトレーニングをして、高3では解法に徹することができる生徒、のいる環境ということだろう。それを忘れて、いま地力のない高校生が「目指せ東大!」と解法のみに躍起になるのは感心しない。さらには、その私立校の入試問題を突破してきた「優秀な」生徒でさえ、高校入試問題を解くために「解法」の対策をして、粗雑な読みしか身につけずに入学してきている生徒が多いのかもしれないのである。その生徒たちは、いったいどこで「読み」を学び、身につけるというのだろうか?音読か?百万語多読か?
解法を求める生徒の心理を踏まえつつ、地道な授業に徹している市井の英語教師にエールを送りたい。
粗雑な読みしか身につけていない読み手は、決して優れた書き手にはなれないのだから。
憂うことの多い一日だった。