『いったい現実を把握している者はいるだろうか』

4月とは思えない肌寒い朝。5時起きで本業へ、昼前に帰宅。資料の整理をして、午後はライティング研究部会。年度計画を詰める予定だったが、校務多忙等でN先生と、新たにお誘いしたN先生と3人で英語教育放談となった。その後、K先生が合流して4人でミニ懇親会。そうそうたるセレクションに時事放談ならぬ、地酒放談となってしまった。申し訳ない。N先生、これに懲りず、また参加して下さい。
帰宅したら、別のK先生から男児出産のご報告メールがとどいていた。おめでとうございます。
『英語教育』5月号(大修館書店)の特集は、「英語力と国語力をともに育てるためには」。
特集への率直な感想は、英語教育側は自分の守備範囲を出て模索しているのだろうか、ということ。自分の居心地の良い立ち位置に国語教育を引き寄せようとしているだけなのではないかという思いが強い。
冒頭の対談は豪華な顔ぶれだが、言語教育放談で終わっている。せっかくディベート教育の大家松本茂氏を英語教育の分野の代表として対談させているのだから、もっとお互いの痛いところにも切り込んでみてはどうだったのだろう。dogをいちいち「犬」と訳さなくても英語が使えるようになるのは、dogと犬がほぼ同じ概念を表していることと、現実の世界で犬を知っているからである。学生や子どもに「覚えるな」というのだ、という山田氏も、では実際にご自分が外国語を自然に身につけるまで、待っていたのだろうか?多くの中学生高校生に、果てしない時間を与える余裕などありはしない。pp.15-16での松本氏がいう、日本の高校までの国語教育は文学教育の域までいっていない、文学教材がおもしろくないのは教師が作品に対する思い入れがないからである、にいたっては暴論であろう。
まずやるべきことは、「自分の母語体験」「自分の国語学習」を客観視する練習・訓練であり、一般の読者である英語教師もその観点でこの対談を読み直してほしいと思う。明治図書や国土社などの国語教育で定評のある出版社の国語教育を専門とする雑誌の編集長を一人加えるだけでも、この対談の付加価値は上がったのではないかと思う。仕掛け人は安心できる人材を集めてはいけないのである。
教育関係に限らず、P.24で示されているような、国語と英語の図式(ベン図)を用いて具体的なイメージを語る人が多いのだが、ベン図は集合論であり、概念モデルとしては極めてmisleadingなものであることが十分認識されていない。ベン図の重なりの部分を見ると説明文に分類される文章の特徴が挙げられているようなのだが、日本語と英語の説明文それぞれの特徴を本当に分析した上で「トピックセンテンス」などと言っているのかが疑問である。生徒が英語の説明文に出会うのは、中学校1年生の終わりくらい。高校入学時でも初体験から2年ほどしか経過しないわけである。その間にどのくらいの説明文の変種・亜種に出会い、特徴を理解し、文章理解能力と表現能力を伸ばしているのだろうか?検定教科書での英語文章へのexposureと母語である日本語の文章へのexposureの圧倒的な差をこのようなベン図での概念モデルで簡単に片付けて良いものなのか不安になる。さらには、このような概念モデルに基づいた指導の結果、どちらの言語にとっても周辺的なもの、本質的でないものしか身につけられない可能性がある、ということを考えているとは思えないのだ。
「学校ぐるみの『言語技術』授業」(pp.25-27)にも同様のナイーブさを感じる。この原稿を、国語科の教員が書いていれば、たぶん違った印象になったのではないかと思う。ここで示されている「言語技術」は、三森ゆりか氏が所長を務める「つくば言語技術研究所」の指導助言に基づいたシラバスらしいのだが、このシラバス自体がそもそも西欧的な言語観に支えられていまいか。対話・討論中心で、4技能を有機的に関連づけた指導で実際にどのような「語彙」「文章」を産出できるようになったのかが全くわからないので評価できない。私のここ数日のブログで言及している内容と比較してくれれば、私の危惧していることがわかってもらえるだろうか?
国語科はもっと地に足のついた、豊かな、教育実践の伝統と成果を持っているのである。なぜ、まずそれを謙虚に学ぼうとしないのか?小学校英語の絡みで紋切り型の「まずは国語力から」という英語教育関係者に、そう注文を出しておきたい。
今号では江利川春雄氏の「英語教育時評」の内容こそ特集する価値がある。
今年度は『英語教育』の購読をやめ、英語科の研究室に届くものを読むことにします。