昭和女子大のOCも早4回目。今週は「リスニングの極意」(『グランドセンチュリー英和』(三省堂)の拙稿)で発音練習も取り入れた。その後、ポピュラーミュージックの歌詞の書き取り。先週の名句名言よりも難しかったようだ。仕事が終わってから駆けつけてくれる人や、終日びっしり授業の入っている学生が夜まで集中して取り組んでくれるので、こちらの準備にも気の引き締まる思い。高校や大学の資格向け講座と違って『英語の総合力向上』などという漠然としたねらいを掲げてスタートした講座だが、受講者の取り組みの真摯さに感謝。
今日はゆっくりできる日。
授業で大活躍だったiPod用のドック(外部機器に接続する端末)が接触不良になってきたので、思い切ってFMトランスミッタを購入!!3メートル以上は離れられるので授業中に板書しながら手元で操作もできるだろうから、音質面さえ目をつぶれば音楽も大丈夫でしょう。(もっともFM ラジオの音質なのだから)明日早速使ってみよう、ということで、11月の歌第二弾は、The Poguesに決めました。乞うご期待!
週初めに、同僚のK先生の取材に同行し、著名な編集者の方とお会いする機会があったのだが、「知性」に対するこだわりのようなものを強く感じ、inspireされた。この場合は「刺戟」だろうなあ。「知性」といえば、最近、作家というか学者というか気になっている人に、阿部公彦(あべまさひこ)氏がいる。東大の助教授で英文学の人なのだが、日本語の言葉のセンスというか、物言いも格好いいのですね。知的で素敵。1966年生まれと言うから、私とそんなに変わらない世代だが、こんな才能がいることを嬉しく思います。ちょっと紹介。
文学というジャンルとのつきあい方、マーケットでの位置、愛読者の性格などこれほど好対照の取りあわせはないと思わせる一方、意外に共通点も多く、とくに六〇年代を経験する世代でありながらあくまで非六〇年代的に振る舞うことで新しい表現の流れをつくっていったあたり、じつは彼らは似ているのではないかとさえ考えたくなる二人の書き手、村上春樹と蓮見重彦。六〇年代を背負いつつも、あくまで七〇年代の申し子として出現することで彼らはその後につづく長い、長い、非六〇年代的時代の先陣を切ったのだと言える。(「70年代の即興 村上春樹と蓮見重彦と「点」の問題 『即興文学の作り方』(松柏社)2004年収録」
などでの一文の呼吸、リズム、ドラマ性。好きですね。期待してみています。
世代感覚、時代感覚というものを20代、30代の頃はそれ程意識していなかったが、最近はかなり気になってきた。
坪内祐三はそれ程好きな作家ではなかったのだが、『後ろ向きで前へ進む』(晶文社、2002年)の冒頭に、「植草甚一的なるものをめぐって」という講演録があり、これで少し、この作家と自分との距離が縮まった感じがした。植草甚一を語るというだけでなく、その中での、蓮見氏の『表層批判宣言』やスーザン・ソンタグの『反解釈』など70年代以降の批評性に関しての言及が自分に響いたのだと思う。それまで食わず嫌い(読まず嫌い)だった自分の不明を恥じた。
ソンタグといえば、内田樹氏がいつだか痛烈に批判をしていたが、その内田氏の近著『街場のアメリカ論』が(ソンタグの講演も出ている)NTT出版から出た。先日、ぶらり途中下車して時間を潰していたとき、立ち寄った書店でこの本を見つけ、電車の中で読み終えてしまったほど面白かった。
この出版社、これからも面白いモノをどんどん出してくれることを期待します。
地元図書館で『杉原千畝と日本の外務省』(杉原誠四郎著、大正出版、1999年)を借りてきた。完全に授業対策。名字は同じだが血縁関係はないらしい。『ビザと美徳』のビデオは、視聴覚室の予約が取れたので来週火曜日の授業で上映が決定。それまでに何をやっておけばよいか、腕の見せ所か。
帰宅して、高3ライティングの作品分析。生徒の出したものをコピーしておき、それを後日読み直して、最初の評価と照らしあわせる。Intra-rater reliabilityを確認するには時々必要だと思っている。料理人の包丁研ぎみたいなものだろうか。
充電完了でこころは晴れだが、「本屋と図書館にしか自分の居場所はないのか?」と少し自分を揺すぶって本日終了。