中旬恒例の『英語教育』『新英語教育』読み比べ。
大修館の『英語教育』はスローラーナーに関する特集。文字指導が出てくるかな、と期待したけれども、ほとんど取り上げられていなかった。
その中で読み返したものが、

  • 木下雅仁「スローラーナー支援の視点に立った授業改善と教材の工夫: ライティング指導を通した授業実践」 (pp. 24-26)

最後のページでさりげなく語られているが、書くことのモニター機能の重要性は繰り返し訴える価値がある。そして、だからこそ、「文字指導」の改善、充実と徹底が求められるのである。
特集の掉尾は竹内理氏。

  • 自己調整学習の観点から (pp. 39-41)

文中の用語で最後まで気になったのが、"SWL" という略語。「学習に困難を感じる者も含み」、「スローラーナー」のことをこう呼んでいるようなのだが、SWLそれぞれが何の略なのか、説明はない。Sはslow, Lはleaner(s) として、ではWは?

  • ここは「学習に困難を感じる者も含んだという意味でのスローラーナー」のことを表しているんですから、SWLが何の略語か分からなくても良いんですよ。

とおっしゃるだろうなとは思うのだが、気になるものは気になるのである。(ちなみに、文中でわからない語があっても気にせず、ぐいぐい読み進めなさい、と私が生徒に求めないのは、このような理由からです。)
今回の特集に一篇でも、「新英研」のフィールドを主として活躍している先生に書いてもらった原稿があれば面白かっただろうなとは思う。

朝から、何冊か本を読んでいたのですが、そのうちの一冊で凄い記述に出会いました。
唖然。暫し、機能停止。Dioの仕業か。
私の目は鱗で覆われていたようです。いや、音だけに耳が覆われていたという方が適切でしょうか。その著者によると、

  • 日本語はすべて有声音

なのだそうです。
嗚呼、竹林滋先生、吉沢典男先生ごめんなさい。G大でお二人に音声のなんたるかを教わったというのに、私は何も学んでいなかったばかりか、自分の常識が世界の常識だと高を括っていました!!
冗談はさておき、これはことばが足りない、で済ましてよいものでしょうか。取り上げたのは次の本です。(「日本語はすべて有声音」の件は、p.28にあります。)

  • 関正生『世界一わかりやすい中学英語の授業』 (中経出版、2012年)

FBでこのことに触れたところ、私の小学校の同級生で、高等学校の同期生でもあるNさんが、

  • 日本語教師養成の教科書には「母音の無声化」も出ています。

とわざわざ知らせてくれました。しばらくして、

  • 「日本語はすべて有声音」でネット検索すると、何人かそのような説明をしている人が見つかりました。

と続報も寄せてくれました。
確かに、日本語の五十音図で示されるような文字それぞれを取り出して発音すると、CVと子音 (consonant) +母音 (vowel) の構造になっているので日本語の各「音節」が有声 (音) で終わるというのは間違いではありませんが、日本語に「無声音」が存在しないかのような記述は、子どもに失礼な形容を使わせてもらえるならば、「子供騙し」以外の何物でもありません。そもそも、五十音図の行と段、活用の説明をどうするのか、ということ、さらには「促音」をどう記述説明するのか、ということですね。この著者には、まず、今月の『英語教育』 (大修館書店) での冨田祐一先生の連載第4回 (p. 72)でも読んでいただいて、日本語の動詞の活用と音節、語幹と子音などについて少しは考えるきっかけとして欲しいですね。私も、日本語の音声の専門家ではないので、日本語の音声そのものについての理解を確かめるレファレンスが必要だな、と思ってはいるのですが、

  • 窪薗晴夫 『音声学・音韻論: 日英語対照による 英語学演習シリーズ1』 (くろしお出版、1998年)
  • 太田朗 「日英語の音体系の比較」 (『日英語の比較: 現代英語教育講座 7』 研究社、1965年)

を参照する程度で済ませていることを反省しています。母語だと高を括るのはいけませんね。

前回の記事の最後でリンクを張った過去ログでも指摘したことですが、

以前から昔の英語の本をよく読む方ではあったが、最近、その傾向が強くなったかもしれない。というのも、私が英語を教わった先生方は皆、私より遙かに英語が出来たのである。当たり前と笑うことなかれ。

  • 私が学んだよりも古い時代の英語の教材で学んでいながら、何故、先生は桁違いの英語力なのか?

最近、その問いが頻繁に頭に浮かぶのである。

という方向で考えることも必要だと思います。
ダイエット本であれば、非科学的な方法でも、安全なのであれば、あまり目くじらを立てることはないのかもしれません。ただ、健康を損なう可能性がある方法を説く本は、口コミで広まったとしても、専門家が警鐘を鳴らすはずですし、市場からも淘汰されていくと思うのです。
CLT、TBLT、SLA、FonF、CLIL, CEFRなどなど、言語教育関連の研究者の尽力には敬意を表しますが、そのような研究の成果を追って、いつもいつもいつも新しいものへ教育現場が靡いていく一方で、公教育で英語教育を担う「教師」への信頼は不当に貶められたがために、巷では英語学習に関して『健康を損なう可能性のある本』が淘汰されることなく、蔓延るようになってしまいました。昔なら考えられないような「教材」が息をし続けているのです。教室で教師が自信を持って英語を教えることが出来る環境整備は、何も教育行政だけの責任ではありません。「勝手はいけない」と著者を窘めたり、「買ってはいけない」と消費者を啓蒙したりするのは、学会や学界ではやらない、というのなら、いったい英語教育「界」の誰が担うべきなのでしょうか。

今回取り上げた本は、「日本語はすべて有声音」の他にも、本当に突っ込みどころがあちこちにあるので、少し「批判的に」言及したいと思います。こういうことをいうと、相も変わらず、「批判」をネガティブなものとしか捉えられない人が多いのですが、いったい「批判」の何を恐れているのでしょうか。「人の批判をするのは、その人が自分に自信がないから」とか「自分が出来ないことを人がやっているのを嫉んでいるだけ」などと何を勘違いしているのかと思うような自己弁護までする人もいます。凄い物言いになると、「人の悪口を言う奴は人として最低だ!」という悪口返し。嗚呼。
もっと風通しを良くすればいいのですよ。結果として学習者や教授者が手にとる教材のクオリティが上がればいいのですから。なかなか本が売れない時代ですが、売れているから良い本とは限りません。小田実的な対処法をとって、その批判してくれる人と一緒に本を出してしまうのが一番良いのですが、おかしな記述や内容に対して、誰も諫言できない様な状況では、「批判」に堪えることもままならないでしょう。その結果、ヨイショ評ばかりが増え、良い書評の影が薄くなります。

今日言及した本の著者は予備校の人気英語講師だそうです。日本語教育関連はどの程度の見識の方かは分かりません。英語本は2000冊読んだそうですから、英語については素晴らしい枠組みを提示してくれることを期待したのですが、この本ではその真価が発揮されておらず残念でした。先日このブログで言及した最近の英語本の類型 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120611) でいうと、

1. 英語ということばの理屈をこの新しい捉え方でひとつひとつ納得すれば細かい規則の無味乾燥な暗記は不要。
2. 英語ネイティブが本来持っている視点と英語を使いこなす感覚を日本人教師が独自の解釈で熱く説く。
3. 最新の言語学や応用言語学の研究成果や知見をチラ見。

のうち、1と2に当てはまるでしょうから、まあ、今風で売れ線なのでしょうね。

この本には、as … as の否定である、not as … asを取り上げて、解説しているところがある (pp. 185-189) のですが、「A is as 〜as B. 『A はBと同じかそれ以上〜だ (A≧B) 』」に関して、

  • これは英検1級だろうが、TOEIC満点だろうが日本人の99.9%は知りませんので、誰もが最初は疑います。では、今から証明していきます。 (p. 187)

とまで言い切って持説を開陳してくれています。
確かに、中学校の教科書にはそのようなことは書いていないと思いますが、

毛利可信 『ジュニア英文典』 (研究社、1974年)、『英語再アタック 常識のウソ』 (駸々堂、1987年)
八木孝夫 『程度表現と比較構造』 (大修館書店、1987年)
若林俊輔 『高校生の英文法』 (三省堂、1984年)、『英語の素朴な疑問に答える36章』 (ジャパンタイムズ、1990年)
T.D. ミントン 『ここがおかしい 日本人の英文法 III』 (研究社、2004年)

あたりを読んでいたら、「≧」の感覚というより「論理」は八木では25年前に指摘されていたことを、若林は中学校段階の指導過程できちんと振り返って『36章』で引用していて、さらに毛利、そしてミントンでは「どういうときに使うのか」文脈や使い方まで指摘されていることが分かり、その先に豊かな地平が見渡せたことだろうに、と思います。
若林は八木から例を引いた後でこう書いています。(pp. 182-183)

従来、as... as を用いた表現は「同等比較」と呼ばれてきました。「程度が同じだ」ということですね。しかし、以上の説明からわかるように、「同等比較」という文法用語は適切ではないことになりました。≧は英語では is equal to or greater than と読みます。日本語では「以上」です。したがって「以上比較」とでも呼ぶことにしましょうか。いや、用語などどうでもいいのです。as 〜 as の意味をきちんと教えればよいのです。

この指摘からも既に20年以上経っています。きちんと教えている人は増えているはずです。
今日取り上げた『世界一…』では、「動詞」に関して、

  • 一般動詞の「否定文」 否定文では「隠れているdo・does」が現れる (pp. 108-112)
  • 一般動詞の「疑問文」 「語順を変えて」疑問文を作る (pp.113-116)

「一般動詞の過去形 (否定文・疑問文)」で、

  • 過去形は「隠れているdidを使う」 (pp. 129-130)

と、助動詞の do (does / did) の説明をしていますが、同じ、「隠れたdo」の説明でも、中学校で長らく指導してきた先生方、たとえば、

田尻悟郎 『英文法 これが最後のやり直し!』 (DHC、2011年)
金枝岳晴 『中学英語の基礎問題---くわしい解説つき---』 (学生社、2006年)

の説明の丁寧さ、わかりやすさには遠く及びません。(過去ログであれば、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20100815 で書いた、ELECのサマーワークショップでのS先生の文法指導のスタンスを是非とも読んで欲しいと思います)
英語教育の伝統を継承したこれらの本をきちんと読んでいれば、もっと説得力のある記述・解説が出来ていただろうにと悔やまれます。絶版のものもあるので、おそらく、彼の選び抜いた2000冊には含まれていなかったのでしょう。私がこれらの本に出会ったのも、きっとたまたま運が良かっただけなのでしょうから、これからは地道に2000冊を目標に英語本を読み進めたいと思っています。
以前、英語関係でお世話になっているある先生とのメールのやりとりで、この著者の独自の説明に触れたら、私がまた例の調子で些細な事に目くじらを立てていると思われたのでしょう、初めは「若さ故の勇み足ということもあるでしょうに」とでもいうように懐の広い反応を示され私を窘めていたその先生が、動画で公開されている授業の様子を見たとたん、「この人、英語がわかっていませんね。」とバッサリと斬り捨てていたのが印象に残っています。私より、よほど辛口です。本当に怖いのはこのような目利きの方の評価でしょう。
「学校では教えてくれない」英語の本質とか頭の働かせ方を指摘し、適切かつ効果的な説明を施す『英語本』はこれまでにもいくつも世に出ています。そして、玉もあれば石もあります。
このブログでも、過去ログで

  • 薬袋善郎 『学校で教えてくれない英文法』 (研究社、2003年)

を取り上げたことがあります (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080220)。薬袋氏の本で、「学校で教えてくれない」と俎上に上がっていた項目が、学校英語の世界では、既に昭和30年代のQuestion Boxで扱われていることを示しておきました。ただ、それを指摘することによって、薬袋氏の著作の良さが著しく損なわれることはありません。そのくらいに、もともとの出来映えが良いものもありますから、良書は良書で、このブログではきちんと紹介しています。

  • 倉谷直臣 『誰も教えてくれなかった英文解釈』 (朝日イブニングニュース社、1979年)

などは、タイトルからしていかにも挑戦的ではありませんか。でも、良いものは良いのですよ。
因みに、今私が読み進めているのは、

  • 小島義郎 『まちがえやすい英語』 (日本放送出版協会、1980年)

です。
繰り返すのはいつもこのことば。

  • 良い英語で、良い教材を。

本日のBGM: 魂の本 (中村一義)

※2012年10月15日追記
吉田正治 『続英語教師のための英文法』(研究社出版、1998年)
では、「『以上』を表す同等比較のas 〜as」(pp. 156-160) という小論で、八木 (1987年)をわかりやすく解説・補足してくれています(A書店のカスタマーレビューでも高い評価を書かせてもらいました)。八木(1987)の入手が難しいようでしたら、是非とも、この吉田(1998)をお手にとって当該ページをお読みいただくことをおすすめします。

追記

この日の内容に関連する過去ログのエントリーは、
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110630
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120718
になります。併せてお読み下さい。