私のシャトルラン

進学クラスを除く1年生は林間学校のような宿泊行事のため本業は開店休業。
正業の授業にしっかりと取り組みたいものです。
高2の「英語II」は『やれでき』で「ワニの口」となる<wh + 不定詞>の続き。

ワニの口の中はどのようなバリエーションが想定できるか
ワニの口と置き換え可能なその他の名詞句、名詞節との使い分けができるか
ワニの口になる、ことがらとしての名詞句を導く、その内容に繋がる<主語+述部>の頭出し表現にはどのようなバリエーションを持っているか

というようなことをやっています。頭の中に浮かんだ意味を英語にする時にどのような「カタチ」「形式」にするのか、という「つじつまあわせ」ですね。
他愛のない、

  • I didn’t know what to say to her.

という文からスタートして、この文をどのような場面・文脈で言うのか?という問いから、「慰める」を引き出し、「慰め方が分からなかった」「どう慰めていいかわからなかった」を何と言えばいいか?

  • I didn’t know how to comfort her.

では、sayにあたる部分が隠れてしまったね、ということで、

  • I didn’t find any words to comfort her.

と「ことば」を前面に出すなら、やはり「名詞」の効き目が求められるので、形容詞的用法で後置修飾を使う、というような表現の比較をするなかで、自分の使えることば、使ってみたいことばを見つけていきます。
当然、不定詞では捌ききれない内容は、<主語+動詞、または助動詞+付き人>といった「名詞節」で表すことになるし、二つの文 (部分) に分ければ、先ほどの文も、

  • I tried to comfort her, but I couldn’t find any words.

とも言える訳です。
一方、

  • The question is how to buy a ticket.

の 頭出しに続く、how toの他に、ワニの口でことがらを表せるかと問い、

  • The question is where to buy a ticket.

は実際に使う場面が思いつきそうです。では、

  • The question is when to buy a ticket.

だと、ネットでの受付開始日や時間との戦いをイメージできるけれども、使える場面はかなり絞られることになります。何でもかんでも置き換えられるわけではありません。何でもかんでも、では困るけれども、ではどういう形式が「普通」なのか、普通は「何と言えばよいのか」?という問いに対しては、「電子辞書」での用例検索とか「オンラインコーパス」が便利、という話しで補足。

  • I can’t decide which ticket to buy.

を軸足として、頭出しのバリエーションへ。

  • I asked her which ticket to buy.
  • I’m not sure which ticket to buy.
  • The question is which ticket to buy.

<疑問詞+不定詞>というくらいなのだから、まず、自分の頭に浮かんだ「?」をことがらとして捉え、それを英語ということばで表すことができるか、そしてその「?」を自分と聞き手との間でやりとりしたり、迷ったり、解決策を求めたり、出口へと近づいたりなどといった、「?」をどうするのか、という動詞表現を、しっかりと自前で考えておくことが求められます。母語でならできる、意味に形式を与える回路を、英語ではどうするのか、「自己表現」の前にやっておくべきことはたくさんあります。

高3ライティングでは、前回の「帽子売りとサル」のpicture storyのフィードバックを詳細に。良質の「物語」を読むこと、しかも、その物語の語り方、すなわち「ことば」を読むこと、の重要性を強調しておきました。高3になって、読みの力がついたからこそ、サイドリーダーのことばが血肉化できるとも言えるのですから、内容を楽しんで読むところから、もう一歩踏み込んで、表現形式を読む楽しみを見いだして欲しいものです。
1学期の残りは、narrativeからdescriptiveへの橋渡し。私の授業では定番の「偉人伝」。
今日は手塚治虫と津田梅子をディクテーションで。『茅ヶ崎』のゼロからの流用です。語彙レベルを落としたら落とした分、文構造では英語らしさを残し、活かさないと、なかなか言いたいことがうまく言えないものです。語彙も構文も易しくしてしまえば、「場面」や「相手」などがはっきりしていて「話題」も「主題」もお互いの了解事項にないと、話し手の伝えたい意味が聞き手に伝わりにくくなります。絵本がなぜ絵本として機能するのか。なぜ、絵本では言葉数が少ないのかということを考えてもらい、

  • この「ライティング」の授業でやっているのは、「ことばだけで」意味を伝えるためのトレーニング。

という自覚を促します。
日本の偉人二人をwarm upとして、次回はGWTで扱われている「パブロ・ピカソの伝記」に入ります。
高1は、授業で求められる課題への取り組みがあまりにもお粗末なので撤収。
入学して3ヵ月になろうというのに、未だに「テスト」の勉強しかできないのでは本末転倒。中学4年生と思えなどとよく言われますが、これでは苦労しますね。意識改革ができないと、この1年をムダに過ごすことになりかねません。担任に状況を報告し、明日へ期待。
放課後は、「常時英心」で取り上げられていた、kitmakerの用法が気になり調べもの。
まずは、語義のおさらいから。
名詞としてのkitを引くと、Cambridgeは、mainly UKとして、

the particular clothing worn by a sports team, or the particular clothing and small pieces of equipment worn and used by people such as soldiers and sailors

という語義を載せています。不可算名詞扱いのようです。
Macmillanでも、[uncountable] Britishとして、

clothes and equipment needed for a sport

という語義を示しています。一方LDOCEでは、British English として、

a set of clothes and equipment that you use for a particular purpose such as playing a sport:

という定義を示しています。ラベルには、[uncountable and countable] とありますが、語義が “a set of …” ですので、ユニットとしての扱いなのだろうと思います。
このように、スポーツのチームで着るウェアー類を指すことは知っていましたが、前置詞のforとのコロケーションを調べていて、世界各国での「サッカー」の人気とともに、あらためて英国起源のスポーツなのだなと思いました。日本だと、「オフィシャルサプライヤー」という言葉は多少使われてはいますが、このkitmakerは、模型や工作の分野以外では、ほとんど使われていないのではないでしょうか。
次のサイト (http://footballkitsdesign.blogspot.jp/2010/04/melbourne-victory-fc-fantasy-kits.html) では、"The design is Reebok, the kitmaker for all the A-League teams." などという文が見つかりますが、それよりも、このようなサイトでサポーターが「同じ」ユニフォームを作り、それに身を包み応援しているのが今時のサッカー文化なのだな、という感慨がありました。調べる契機を与えて頂き感謝です。

帰宅途中で、新装なったkajiwaraでケーキを仕入れ、紅茶を淹れて、同僚に録画してもらっていた、ジョージ・マーティンの特番を見る。
もっと、録音秘話みたいなものがあるのかと期待していたが、人間ドラマ的な切り口だった。

さて、
ちょっと時間があったので某所で呟いていたものをこちらにも再録。(https://twitter.com/tmrowing/status/212070205868875776)

最近の英語学習本で多いのは「英語ということばの理屈をこの新しい捉え方でひとつひとつ納得すれば細かい規則の無味乾燥な暗記は不要」「英語ネイティブが本来持っている視点と英語を使いこなす感覚を日本人教師が独自の解釈で熱く説く」「最新の言語学や応用言語学の研究成果や知見をチラ見」ですね。

当然、私の個人的な印象評価です。
最初のものからいうと、「ジャスティス、そしてフリーダム」という感じでしょうか。得てして、「中学・高校の授業での文法指導、語彙指導を批判的に扱い、これこそが『本質』なのですよ」という提示の仕方です。「新しい捉え方で理屈に納得」しても、結局「覚えなければならない事柄の総量」はそれほど減らないように感じています。「細かい規則が大まかに統合されることで」全体像が見えやすくなったとしても、その大まかな枠組みの中には、個々のルールの適用が待っていると思うからです。

二番目の「英語ネイティブの感覚」というのも、最近の流行。
個人的には、「英語ネイティブの感覚を知りたい」のだったら英語ネイティブに直接英語で書いてもらって、それを優秀な翻訳家に日本語に訳して欲しいと思います。もし、英語ネイティブではないけれども、英語ネイティブ以上に英語に習熟していて、技能もことばの感性も豊かな人がいるのであれば、その人が単独で書けば済むことだと思います。
古くは、

  • 林語堂 『開明英文文法』 (文建書房、山田和男訳、1960年)

という優れた翻訳がありましたし、

  • デニス・キーン、松浪有 『英文法の問題点』 (研究社、1969年)

は今でも出版されていますが、英語版だけでなく、邦訳されていれば今よりも多くの人に役立つものになっていたことでしょう。
最近でもT. D. ミントンさんのものは網羅的ではないものの示唆に富むものだと思っています。ちなみに、高校の新課程の「英語表現 I」で、数研出版の教科書がミントン氏を著者代表として作られている模様。精査にはもうしばらく必要です。
日英の対照言語学的なアプローチをするのであれば、英語ネイティブと日本語のネイティブとの共著となるのでしょうが、どちらも母語話者の直感をただ示すだけでは不十分で、英語ネイティブが、日本語の運用力も、日本語ということばそのものに関する理解・知識も日本語ネイティブと同等かそれ以上、日本語ネイティブの方も、英語の運用力、英語ということばそのものに関する理解・知識が英語ネイティブと同等かそれ以上、というのが望まれるように思います。とすれば、それこそ求められる教材は、両者が膝つき合わせて作る「『英語表現』の教科書」となるのではないのかな、とも思う訳です。

最後の「最新の研究成果」というのは、魅力的ですね。
でも、たとえば、応用言語学という学問は別に英語などの「外国語教育」や「第二言語教育」を支援しようとして生まれて発展してきた訳ではなく、英語教育の住人が、そういった英語教育から見て、周辺にある学問の成果からの「いいとこどり」を企んだと考えるのが筋ではないかと思います。SLAをやりたい人は、SLAを解き明かしたいという動機・目的がある訳で、「英語教育」がしたい訳ではないだろうと思うのです。「応用」「援用」「活用」などという言葉づかいだけでなく最近は「参照」まで耳にするようになりました。
慶應義塾大学の大津由紀雄先生は、「大津研ブログ」で次のように書かれていて、大いに頷くものです。(原文・全文は是非ともこちらのリンクから→ http://oyukio.blogspot.jp/#!/2012/05/blog-post_27.html)

5 とはいえ、もうひとつ大切なのは、「外国語教育に関わる人が言語学や心理学で得られた知見に関心を持つこと」自体は重要なことで、問題はそうした知見に縛られ過ぎてはいけないということです。たとえば、英語教育を実践する先生がたには、文は単に単語が一列に連結された列車のようなものではなく、その背後に、単語のまとまりとその重なりという見えない世界が広がっているとか、言語理解の過程では言語知識だけでなく、ありとあらゆる情報を駆使した処理が脳の中で行われている(たとえば、「時計をお持ちですか」という発話も、道で声をかけられたときに発せられた場合と運動会の借り物競争の選手から発せられた場合とでは意味がまったく違う)とか、というようなことはぜひ心得ておいてほしいと思います。

6 5を実現させるためには、教育の実践に携わる方々のために科学研究の成果をわかりやすく解説する仕事が重要な意味を持ってきます。近年、そういう趣旨のワークショップや書物が少しずつ目につくようになってきましたが、教育実践者にとってはまだまだ敷居が高い。この状況を打破するためには、研究者が専攻領域の研究成果などを教育実践者を含めた一般の人たちに解説する時の心得を身につけるためのワークショップも必要だと考えています。

期待し続けたいと思っています。
どんなに科学が進んだとしても、結局は、自分の頭を使ってその英語を処理し、理解し、運用し、身につけなければならないことに変わりはないのです。

もう一つ呟いたのが、多読に関して。
FBの方では少し補足しておきました。コメントもいくつかいただいたので、それを踏まえてのまとめを。
当初の発言は、

音読が流行っている。多読も流行っている。只管打座を語学に取り入れ只管朗読、只管音読という修練を説いたのは國弘正雄氏だったか。多くの英語教師が影響を受けているのだろう。音読と共に今流行の多読実践は「百万語多読」とか。語数で達成度を測るというのだろうが、言葉の発達は読んだ語数のみで換算したり測定したりできるのものなのだろうか?何をどのように読むのか?繰り返しや読み直しは?語数だけでよいのなら、OgdenのBasic Englishの850語で書かれた英語で「百万語多読」を読破した人の英語はどのような発達段階にあるのだろうか?そんなことを考えていた日曜日の午後でした。

という内容。その後、

以前、大学の後輩達と雑談していた時に、中1レベルから高3レベルまでの発達段階を考慮し、語彙・構文・テクストタイプ・ジャンルのバラエティを備えた視写教材を作り、「百万語多写」をしてもらえば、その結果「百万語多読」は終わるね、というアイデアを思いつき、盛り上がった。それだけの話し。

と連続で呟きました。
コメントも受けて補足したのが、

これは"Can-do"関連で「読み」の指標を考えていた頃からの疑問ですね。100万語を6年で単純に割ればいいってものではないし、語彙レベルだけで考えても、中1レベルで400語からのスタートを想定したとして、では高3レベルで4000語に到達するまでの語彙レベルの上がり方は均等な階段ではあり得ないと思う訳です。その中で、基礎語彙の2000語の習得はどうなっているのか?発話ではどのような変化が見られるのか?そこに、発達と教材選択の嗜好の個人差を考慮に入れれば、膨...大な図書が必要になります。今では「多読」の学会もあるとのことなので、実証的研究がされているとも思うのですが、高3で100万語達成時に4000語レベルの受容語彙を身につけた学習者と、100万語達成時に2000語レベルの受容語彙しか身につかなかった学習者との「差」はどのようなものなのか?そういうことを考えていた次第です。materials writerの立場から考えると、「国産」で「日本の中高生を対象に書かれた」本が余りに少ないのが気になっています。むしろ、昭和の頃の教材に優れた「多読用」教材が日本の出版社で作られ、売られていたように思い、古書で探しては買い集めています。今は、教授理論も教材も輸入品ばかりなのでしょうか。

と、自分の実践に言及。

上のコメントで、「"Can-do"関連で『読み』の指標を考えていた頃」というのが、90年代末から00年代にかけてのCanadian Language Benchmarksを追いかけていた頃ですから、もう15年くらい同じような疑問をずっと抱えて生きているのですね。わずか10年で学習指導要領を書き換えられてしまう今の日本の中高の英語教育は私には住みにくく、息苦しいものに感じます。この週末は、Charles C. Friesの周辺を読んでいました。ノスタルジアを超えた次元で学び直したいものです。

今日の学び直しで、フリーズを遡る。

  • Teaching & Learning English as a Foreign Language, The University of Michigan Press (1945年)

なかなか越えられません。

「日本語のロック」を、「はっぴいえんど」まで遡って、もう一度自分の歩みで進化をやり直しているような錯覚にとらわれることがあります。
曽我部恵一や岸田繁ってそんな思いをどう越えてきたのだろうか。

本日のBGM: ロックンロール (曽我部恵一BAND)