志x司

高2のインハイ出場選手が、実習・課外でなかなか予定通りに練習できませんが、木曜日は、午前・午後と追い込みました。午前のメインメニューは、1分オン・1分オフx8セットx2ラウンド。restを挟んだあとの、2ラウンド目の出だし2、3セットがお粗末だったので、ダメ出し。腕漕ぎから前へ、レッグ1/2から後ろへと加速の再確認。2ラウンド目はリセットで最初から8セットやってお昼ご飯。
午後は、1年生よりもかなり早く岸を蹴って、アップで1周4km。後ろからと前から作っていき、加速を体現、体感してから、メインはUT16km。計5周で20km。最後の1周は、拍手を送りたくなるくらい良い出来でした。このDPSが最初から維持できるよう、自分の身体のアンテナ、センサーの感度を高く、志を高く!
2部練が2回目の1年生。やっと、練習で疲れるところまで来たという感じです。
2Xはエントリーのタイミングを少し指導。
漕ぎ急いで艇にブレーキを掛けるのは好ましくないのだけれど、出力が低いのはやっぱりダメ。確かにエントリーはリカバリーの終わりなんだけど、もさっとしていてはダメ。この折り合いをつけるのは初心者には難題です。リカバリーの最後、股関節を畳んだところで、腹をキュッと締めておくことですぐにぶら下がれることが感じられるかどうか。まあ、今回は、導入ということで、あとはどんどん出力してもらうことですね。大きく間違えて、大きく学んで下さいな。
金曜日は午後モーション。
短時間集中で、一番良い感じを出して上がろう、という目論見は、メニュー終了まであと30分、というところでゲリラ豪雨により崩れました。本当に、視界がなくなるのが困りものです。S社の艇は、デッキが閉じていて1X、2Xとも、足下にだけ水が溜まる構造なので対処しやすいことだけが幸い。艇を傾けて、水を出してから揚艇。カタマランに乗っていた私も、ゴアの上だけしか持って行かなかったので、洗濯したての短パンがびしょびしょでした。油断大敵ですね。ネコとライオンを忘れずに撤収。帰る頃には、うっすらと青空が見えていました。
明日は、遠い方の湖です。

GWTのテキスト冊子で、記述の不備、できれば改訂したい部分を精査。ELECの講座に備える。
今回の講座で主張しておきたいことはいくつかあるのだが、そのうちの1つは、

  • 「技能統合・技能連携」の指導の前に、まずは「単一技能としてのライティング」の指導を確認しておきましょう。

ということ。きっと、今後、こういうことを言う人はいなくなっていくだろうから。「単一技能」のライティングであっても、当然、読み手が存在するのですから、潜在的に「書きっぱなし」というわけではないのです。
「スピーチ」の指導で、原稿を添削しない教師はあまりいないでしょう。では、その場合の教師が行う添削のスキルは「ライティング指導」のスキルに依存しているとは考えられないでしょうか?「ディベート」の指導でも同様。肯定側も否定側も、最初の原稿の準備で作り込んでいく段階では教師が「添削」しませんかね?なぜか?その原稿の英語を「聞く」相手がいるからでしょう。では、なぜ、「ライティング」の指導では、「添削の効果」の実証的研究とやらを盲信して、添削を忌避しようとするのか、そこが私にはよく分かりません。
添削の部分は「ALT」なる人に丸投げ、というケースも多々見られます。

  • 日本語を母語とする学習者の発想や典型的な誤りを知らないから、書かれた英語だけで客観的に評価できる。

という利点を活かすのであれば頷けますが、では、

  • その英語のまずい部分は、今後どのようなプロセス、努力を経て、よりよい、まともな英語へと成長することが可能なのか?

という筋道を作ってあげられるのは、我々日本語を母語とする教師でしょう。
フィードバックの種類をあれこれと吟味し、定義し、後出しじゃんけんでいろいろ理屈をつける前に、もっとたくさん書かせて、きちんと英語を直して、また書かせるという泥臭い、効果があるんだかないんだか、3ヵ月や半年くらいではよく分からないような指導を諦めず淡々とこなすくらいじゃないといかんのじゃないですかね。
いくら理想的なシラバスを拵えても、書かせたものを教師が読めなければ、読んだものを返却できなければ、返却されたものを活かせなければ、次には進めません。その意味において (限定です)、ピアレスポンスとかピアフィードバックとかピアコレクションといった今風の手法にのみ頼るのは感心しません。「ピア (同輩)」の中の習熟度の差、英語力の差を活かすには、習熟度の高い者、英語力の高い者に対して、彼ら彼女らを満足させる「レスポンス」「フィードバック」「コレクション」を教師が与えている必要があります。

故に、「マネジメント」は何にも増して大事なのです。何年か前にELECの講座を担当した時に、初めてこの「マネジメント」を強調したと記憶しているのですが、「教師も経営者としての意識を持て」などという「学校経営」という意味のマネジメントではありません。
「書くこと」の指導・評価においては、

  • 1クラスでの生徒数、その年度で担当する総生徒数。
  • これまでの「書く活動」履歴とその習熟度。

を踏まえて、

  • 1回の課題で書かせる語数、リバイズ・清書も含めて1課で扱う総課題数、年間の総課題数。

を決めるに当たっては、

  • 視写・ディクテーション・整序完成などすでに完成した英文に基づく書く課題の回数と全体での割合。
  • 序論・本論・結論など完成した英文の一部が抜かれていて、そこに自分で考えて英文を完成する書く課題の回数と割合。
  • タイトル・題をもとにアイデアジェネレーションの段階から、自分で考えて書く課題の回数と割合。

を考え、見通しておき、

  • 物語文、説明文、論証文といった異なるテクストタイプでの書く課題の回数と割合。

を適切に配置することになるでしょう。
これまでの指導要領下で「ライティング」がうまくいかなかったのは、こういった「マネジメント」をきちんと考えてこなかったから、さらには、考えたものを実行に移す時にその実現を阻む「壁」、数々数々の障壁を、そうだと世に問うてこなかったからではないのか、という強い思いが私にはあります。そして、教師としての目の前にある障壁もあれば、心の中にある障壁もあります。指導や評価の技術を磨くのは大事ですが、それと並行して、壁を越えたり崩したりする、現実的なマネジメント、いや「マネジメントの実現」もやっていくことです。
自分のいる職場を思い起こして、自分の同僚、自分の担当するクラスの生徒、まずはそういった顔・顔・顔を思い浮かべて「研修会」に臨むところからマネジメントの実現は始まっているのだと思います。

本日のBGM: Walls (Glen Campbell)