「続読」

先日のコーチセミナーでのM氏の発言で気になったこと。

  • トレーニングでは常にqaulityの評価をしなさい。

量だけ漕いで安心してはダメで、強度と精度の高さが鍵を握るということなのだが、ここは多くの高校生や大学生には十分理解されていないところだろう。

  • 6kmを一番速く漕げる選手が必ずしも2kmを一番速く漕げるわけではないのに、なぜ6kmのトライアルを行い選手の評価をするのか?

答えは簡単、

  • 今2kmを一番速く漕げる選手が、明日も一番速いとは限らないから。

本業のトレーニングで、長い距離を強く漕ぐことをまず要求するのだが、それはその方が技術的に易しいから。そして、リカバリーでリラックスできるという、この競技にしかない特性があればこそ。ランニングやスイミング、スピードスケートでは、このリカバリーのフェイズで休むことはまず期待できないし、自転車競技でもロードの下り位しか、これに近いものはないように思う。どんなに全力で漕いでも、SRを低く抑える間は、オーバーワークになりにくいのである。
前任のGPしかり、今回のM氏しかり、世界のトップレベルのコーチは、このUTレベルが達成されている選手を指導しているから、長距離の定常漕だけではダメ、レーススピードを考えた質の高い、強度の高いトレーニングを、というわけである。高校の場合は、顧問・指導者がしっかりしているチームが多いので大丈夫だろうが、ここを履き違えて、メニュー後に確かに心拍数がmax近くまで上がり、筋肉痛にもなるけれどレースでのタイムが上がらないという安易な道を選んだり、今現在の自分たちのレベルを無視して闇雲に強度を上げて故障したりする大学生が増えないことを祈る。

本業の長距離定常漕と対比できるものとして、英語教育での多読が考えられる。では、英語教室での多読は易しいのだろうか?学習者に優しいのだろうか?
今現在の私の多読へのアプローチを補足しておきたい。
多読は自分の英語力 (主として読解力と言った方が通りは良いのだろうが、結局実態がわかりにくいことには変わりがないので、英語力としておく)、のマイナス1の段階で10やってから。精読はプラス1の教材で。精読した教材を音読教材へ変え、守備範囲を拡げ、山の裾野を広げ自分の立つ足場を高める。
というようなコンセプトである。
「やさたく」というのはいいことで、それ自体には全く問題はないが、いつ、どのように「ちょいむず」とか「ややむず」へと移行するのかを併せて考えておかなければシラバスにはならない。いわゆる「多読」指導で大事なことは、「読み続けている」こと、すなわち「続読 (ぞくどく)」である。読むには時間がかかる。まして「多読」となればかなりの時間である。ということは、他教科の学習にも時間を割きながら多読ができる生徒というのは、それまでの「無駄に過ごしてきた時間」を整理することに成功しているといえる。であれば、その時間の中で、読む英語のレベルを上げていくとか、向上した英語力を援用して、精読に移行するなどという展開が期待できる。
ということで、英語がコントロールされているものを、まず私自身が読んでみて、ある程度の幅を持たせて教室に備える。たとえば、日本でもおなじみの『トム・ソーヤ』ものは、出版社、レベルの異なるものを数冊置いているし、ディケンズなど英語圏の名作ものも複数レベルで対応している。現在高2の教室に30冊くらい。音源が付属しているものは少数。日本で企画した対訳・訳註ものや、すでに内容を自分が知っている日本の昔話などを徐々に増やしている。高3の教室には、『ケネスの…』シリーズや、NHK出版のペーパーバックなど日本で企画された書き下ろしのものも含めて、英語がそれほどコントロールされていないものと、小説なら原文を収録したペーパーバックとを置き、さらには『翻訳本』も併せて置くなどの工夫をしている。
ESLやEFL教材として企画されたものならともかく、英語圏の子ども向けに書かれたものは、面白いのだろうが英語を消化吸収するにはハードルが多々ある。
たとえば、私が今調べている『ロッタちゃん』は小学校低・中学年 (7〜10歳) 向けのお話。にもかかわらず、様態の分詞句や形容詞句 (いわゆる付帯状況の分詞構文) が頻繁に出てくる。たとえば、

  • One morning, shortly after her fifth birthday, Lotta woke up on Troublemaker Street, angry from the very start.
  • Lotta was convinced that Bamsie was lying on the pillow feeling hurt because Jonas and Maria had hit him.

この2例目のように、時制にしても、基準時制を過去形で書いてしまえば、過去完了形を使わざるを得ないこともある。
次のように、<助動詞+完了形>による話者の心的態度の表明や、文法書では、「描出話法」や「中間話法」などと言われるものも。

  • She had had a bad dream, and Lotta thought that what you dreamed was true.
  • “Lotta dear, it must have been a dream,” said Mother.

読者のイマジネーションを喚起し、臨場感を損なわないためには致し方ないことだろう。では、高校1年生で分詞構文を習うまで、過去完了形を習うまで、助動詞と時制のズレを習うまで、さらには「描出話法」を習うまで、『ロッタちゃん』はお預けか?そんなことはない。構文・統語レベルを成熟させる前には、語彙のレベルを十分に下げておけばいいのである。語彙も構文もコントロールができない部分には、語彙の注釈・訳註を施せばいいのである。だからこそ、輸入物のサイドリーダーをそのまま多読指導に用いて、学習者の自主性に完全に委ねるのは危険性が伴うと考えている。少なくとも、輸入にあたる出版社が、優れた英語教師・編集者の力を借りて、訳註や構文の解説をつけた小冊子を添付するような気遣いが欲しいところ。ただし、版権を取る手間暇金、小冊子を作る手間暇金、そこに関わる人選などを考えたときに、これではpayしないと私でも思う。市場を作り、それが大きくなり成熟すれば、粗悪なサイドリーダーは淘汰され、良質なものだけが残るというのではあまりにナイーブだと思う。
洋画を見て英語の勉強をしようという際に、大学受験生がいつまでも『ディズニー』というわけにはいかないし、いくら面白いからといって初学者がいきなり『ダ・ヴィンチ・コード』では大変なことを考えれば、字幕の活用とか、キャプションの活用という補助輪の必要性は理解してもらえるだろう。
であれば、「多読指導」ではどうなのか?全ての英語教師に、自分の教室の生徒に合わせて英語で書き下ろす、Storytellerの資質を求めるのは酷である。そんな研修をするよりは、オーラル・イントロダクションやリキャストの腕を磨く方が余程いい。でも、教材を作るのが仕事の人たちに本当に良い仕事をさせるには現場の教師のフィードバックが欠かせないのだ。
函館の今井先生が、多読教材の開発を視野に入れているとのこと。是非とも軌道に乗せて欲しい。協力は惜しまないつもりである。
さて、
今日は、連休最終日。
7時過ぎから6時前まで模試監督その他で学校にいました。
模試をやっている間も、グランドでは野球部が大きな声をあげてトレーニング、紅白戦。校舎からは吹奏楽部の練習する様々な楽器の音。彼らもまた必死なのだ。ただ、午後からは教室すぐ横のテニスコートで数名、トレーニングには全く見えない球の打ち合い。勉強で自学自習が最も難しいように、フィードバックの得にくい自主トレは効果が期待しにくいものです。もっとも水泳やテニスで強い選手というのは、高校ではなく「スクール」で鍛えていることが多いのですけれど…。
文句を言っても始まりません。
今いる環境でベストを尽くすのみ。
リカバリーも終了、またドライブのフェイズが始まります。

本日のBGM: It'll take a long time (Sandy Denny)