Fluency revisited

英語教育ではよく、AccuracyとFluencyという概念が取り上げられる。

研究授業で、生徒の積極的なプロダクションを促す授業が展開される場合、スピーキングとライティングで「間違いを気にせず、どんどん話しましょう[書きましょう]」という指導をする根拠として、「accuracyよりもfluencyを重視しました」、というコメントが授業者からなされたりもする。この場合のaccuracyは何を意味していて、fluencyは何を意味しているのか、疑問を持ったことがあるだろうか?
「そりゃ、accuracyは『正確さ』で、fluencyは『流暢さ』でしょう?」という人がいるかもしれない。私がここで問題にしているのは、その考え方自体が曖昧なのではないだろうか?ということである。上述の授業の例で言えば、「inaccuracyには目をつぶってfluencyを優先させた」というのが正確な言い方なのだろうが、その考え方がそもそも妥当なのか、ということである。
一昨年の全英連東京大会での自分の発表の際にも指摘したことだが、accuracyというからには、 What is it accurate to? に対する答えが、 fluencyであれば、 What is it that flows?に対する答えが用意されていなければならないだろう。accuracyをsentence level accuracyのように、誤りのないことに置き換えるとするならばまだ議論が続くのだが、fluencyは、多くの場合、単に「総語数」、良心的な実践や研究でも「異語数」でしかない。ひところ注目を浴びた「誤りのないT-unit数」に関して,今、教科教育法で扱っているような大学はほとんどないだろう。
そもそも「生徒の発話がfluentである」、というとき、そのfluencyはaccuracyと全く切り離して考えることができるだろうか?誤りの割合が多くなれば当然、コミュニケーションに支障を来し、その発話はfluentではなくなるか、または聞き手からの質問などの介入がなされるのではないだろうか?そのような発話を維持するには努力を要し、語彙の選択、言い換えなど躊躇することも多くなるのではないだろうか?
GuillotはFluency and its teaching (1999)において、accuracy/fluencyという概念に代わるものとして、viability/efficiencyという概念を提示している。ライティングに特化しての先行研究としては、Wolfe-Quintero, Inagaki & Kim らによるSecond language development in writing: measures of fluency, accuracy & complexity (1998)がある。そこでは、単位時間の発話語数、発話語数を節の数で割ったもの、文の数でわったもの、総語数を、T-unitの数で割ったもの、総語数を、誤りのないT-unitの数で割ったもの、誤りのない節中に含まれる総語数を誤りのない節の数で割ったもの、など様々な観点でのfluencyの指標が考察されている。
英語教師はあまりにもaccuracy/fluecnyという二項対立に慣れてしまっていて、本質を忘れているのではないのだろうか。Global errors vs. local errorsに関してもいずれきちんとコメントしておきたい。