気がつけば、8月も中旬。
先週末に、英授研2017大阪大会に参加してきましたので、そのレポートをば。
ELEC同友会は昨年度末で退会したので、私が所属している、英語教育に関する「学会」も、もうこれを残すのみです。その意味では、私もまだ「英語教育界」への期待は残しているということなのでしょう。
今回、全てのプログラムを見ているわけではないし、全てを高く評価している訳ではありませんが、気のついた、気になったところ、自分が揺すぶられたところなどを掻い摘んで。
初日の「映像による授業研究」、植野伸子先生(筑波大学附属中学校)の授業は流石という感じ。
日本語を使うところと、英語を使うところを行き来する「シームレス」な感じは、もう「りえ様」に匹敵するレベル。質疑応答の際に、会場から「笑顔が素敵」というコメントがあったように思うのだけれど、「声の表情」にもっと着目(音声だけに(着耳?)して欲しいと思う。
2013年に「山口県英語教育フォーラム」で講師としてお招きした時のまとめがこちらにありますので、そちらもご覧下さい。まとめてくれたのは、mami tanaka さんです。深謝。
次の、分科会形式では、「パフォーマンステスト」に関する発表に出ました。
根岸雅史+茶本卓子+蒔田守という安定の顔ぶれ。
私の質問は「お題設定」に関わる、「もっともらしさ」=「うさんくささ」と、「Can-doを作りましょう!」の大合唱と共に、みんなそっちへ流れていないか? というもので、主に根岸先生に向けられたのでしたが、根岸先生はいつも以上に誠実に回答してくれていたと思います。(「松井さんが赤いシャツを着て質問すると緊張する」というコメントは余計だったと思いますが…。)
参加された方がどの程度、根岸先生の回答の持つ意味というか重みを分かっていたか、が気がかりではありますが、二日目の、午後のプログラムを待っている時に、そのピンポイントを太田会長から指摘され、私の意図も補足でき、全国を回っている会長からの現場とのやりとりもお聞きでき、少々安堵はしています。
二日目の午前のワークショップは、高校の部に出たのですが、少々残念な時間設定と構成。
高校の授業の中に interactionをどう位置づけるか、というのは、この後に控えている、「映像による授業研究」の高等学校の部、を見る際の重要な視点となるはずだったので、できれば、高校での授業実践に明るい方に担当していただきたかった。
高校の部の「映像による授業研究」は、神戸市立葺合高校の、「普通科」での実践。授業者は 宮崎貴弘先生。
英授研ではもう何回も発表されている実力者。
とかく「英語科」、「国際科」、「SGH校」、「拠点校」などの実践が取り上げられることの多い「大会」で、そういう教育課程を一方でもちながら、そうではない「普通」のクラスでの実践を見せる、というのは大変に勇気のいることだと思いました。その意味でも、今回の発表は貴重なものでした。有難うございます。
ただ、私はほぼリアルタイムでツイッターで連投していましたが、教科書として与えられている「素材文」の読みが浅すぎるまま、その理解を踏まえた、活動に移っていたのが残念でした。
今回の「ねらい」が「即興でのやりとり」にあることは充分理解した上で苦言を呈しますが、「即興でのやり取り」をする前に、「書いてある文字通りのことがら」を「きちんと」読ませることの重要性を再考すべきだと思います。この部分に関しては、「教科書」を作る、書く側にも再考すべきことが多々有ると思うので、この後で詳述します。
二日目の午後のプログラムでは、西村秀之先生の大学院生としての「5ラウンドシステム」に関わる発表(途中経過報告?)がお目当だったので、今回の英授研大会参加の目的は果たしたかなと。
一方で、分科会で聞いた、IB関連の発表は、「なんだかなぁ?」というものでした。
用語の定義説明もなく、HOTs, LOTs の対比で、「深くて高度な思考スキル」を授業で課すと生徒はこんなに伸びるのです、と発表されていたのですが、
生徒の英語の「伸び」の指標として、AWLの出現率を、指導前・後で比較しているのだが、高2なら高2のシラバス全体におけるAWLの出現率(カバー率、露出率?)はどのくらいなのか?
と質問したら、「それは調べていない」という回答に「?」。
もう、見切りをつけて、そのあとはツッコミませんでした。ある題材を扱って、その資料英文に、集中的にAWL語彙が出現してたら、それに基づく意見を言わせたり書かせたりしても、コピペですんじゃうでしょ?「成果」を検証する、統計的手法の選択の遥か以前の問題ではないでしょうかね。
さて、先程「詳述する」としていた、二日目の映像による授業研究「高等学校」編。
見ていて、随分考えさせられました。
私自身、英語教育に関わる先進的な取組みをしている高校の視察ということで20年以上前に訪問している「神戸市立葺合高等学校」の授業だけれど、今回は普通科の高1の「コミュ英」が見られるという、貴重な機会でした。やはり、普通科ならではの苦労もあるなあと思って見ていました。
特に、「読解による内容理解」では、ペアを作って日本語で確認するフェーズを設けていて、好感は持てたのですが、いかんせん、教科書本文の読みが「浅いまま」で、意見交換など、「即興的なやりとり」に進んでいたので、その後の発展や深化に繋げるのは難しいだろうというのが正直な感想です。
写真で貼り付けた1,2枚目が、教科書本文になります。
そして、指導案で「内容理解」に関わる部分は以下のようになっています。
6. 本時の目標
教師の発問に対して、即興で意見を表現することができる。
与えられたテーマについて、質問を効果的に使い、話を深めることができる。
教科書本文を読み、概要を読みとることができる。
このレッスンでの、パート1は、それに続くパート2と違い、一人称のマララさんの手記というか談話となっていることにまず注意が必要でしょう。
マララが記憶を頼りに状況を描写する、映像的な表現となっています。
「本時の目標」にある「概要を読みとる」ためには、その「マララのことば」を読んで、どの程度読み手である生徒の頭に「絵」が浮かんでいるか、が大事だと思うのです。
正直言って、私は、この教科書のパート1の英文だけでは一読了解とはなりませんでした。
でも、私は既に、マララさんについて様々な情報を持っているので、この本文では細かいところを気にせず「流し読み」をしても、その事件の起こった「状況」の理解に支障を来さないだけなのだと思います。言ってみれば、本文を読んでいるのではなく。既に自分の「内」にある「意味内容」を、この本文で「想起」しているということでしょう。
映し出された授業展開を動画から推測するに、語義を確認として扱われていた threat(s) と同等か、それ以上に重要なのが、以下に列挙する「書いてある文字通りの理解」の確認だろうと思うのです。
まずは、
Outside the door to the school, there were fundamentalists ....
の the door はどこのドアなのか、絵が描けているか?
ここでの「内」「外」の理解は、この後の記述の理解を大きく左右します。
また、次の、
our bus arrived
という局面では、私たちはどこにいるのだろうか?バスの外?内?
our bus の “our” の理解が問われるところでもあります。
We ran down the steps. の the steps. がどこの階段なのか?
定冠詞の the の認識が問われるところ。
The other girls all covered their heads の 名詞head は身体のど(こからどこまで)の部分か?
The other girls で、「その他全ての女子」で母集団から取り除かれ、残る「その人」とは誰? We? I?
ここは、この後に出てくる、I was the only girl whose face was not covered. につながる部分だけれど、そのような「書かれている文字通りの情報」が的確に読めているかを、いつ、どのように確認しているのか、が心許なかった。
さらには、
... before emerging from the door のthe door はどこのドアなのか?
申し訳ないが、映像に映っているペアだけでなく、クラスの生徒全員が分かっているとは思えませんでした。しかしながら、この部分が的確、適切に押さえられていないと、次の
When the bus turned ..., we ....
で、このバスは私たちが今乗っているバスなのか、それともこれから乗り込もうとするバスなのか?
の絵が描けないと思う。
主節にある、we suddenly stopped. の「私たち」が誰なのか?そしてその居場所がどこなのか、本当にわかっているだろうか? We は乗客たる女子、つまり人?それとも乗客の集合としてのバス?
ここも、先程の「内」「外」と絡んでくるところ。
表現で言えば、ここは
we had to stop でも、
we were forced to stopでも、
we were stopped でもなく、
stopped と一般動詞の単純過去形で書かれている事実・行動です。
ここはどんな情景を淡々と描写したものなのか?
そんなに簡単に通り過ぎていいものですかね?
教科書は大修館書店の Genius のBook 1。
「流石はG1レース!」というわけではないですが、ここがレッスンの最初のパート1というのはハードルが高いな、と思いました。「マララ証言」を前面に出した、オーセンティックな英語での手記を題材にしたいのであれば、コラム扱いでよかったのに、というのが偽らざる実感です。
私がこの教科書を読む前に知っていた「情報」は、次のようなものから得られたものの集積でした。
BBCの2013年の特集記事より。
ここにまず、「バス」と称されるものの描写があり、教科書の記述ではわからないことが書かれていることがわかると思います。
こういう「事物の描写の的確さ」がほとんど考慮されていないのが、日本の英語の検定教科書の欠点の一つでもあると思っています。
ここでは、「ニュース特番」的な扱いですから、”the bus was flagged down by …” という、「事実関係として」重要な記述がきちんとあることに注目して欲しいと思います。
次は、小さなメディア、短いニュース動画。
「バス」の「幌」や「三列ベンチ」の様子だけではなく、テスト中の下校風景で、「階段」のイメージもわかるようなつくりになっています。
こちらのABCの記事では、マララの証言を多く引いています。教科書にあるものと同じ表現も出てきますので、該当箇所を照合されたし。
そして、マララの証言として「一人称」のもので、より長いものが、こちらの現地(?)メディアのPUKHTUNKHWA TIMES。教科書の内容と重なっている部分が多くなっています。
http://pukhtunkhwatimes.blogspot.jp/2013/10/malala-yousafzai-bravest-girl-in-world.html
最後に、Mirrorから。こちらの記事が引いている彼女の談話が教科書に一番近いのかな?
http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/malala-yousafzai-tells-moment-shot-2365460
このような「情報」を踏まえて、再度、教科書本文を読むと、教科書の本文での「言葉」の選択に、もう少し配慮があってしかるべきだったろうと思います。「教科書著者」側の問題です。
このままの記述では、やはり、「普通の高校生」には一読了解となりにくいと思うのです。
少なくとも、「内」「外」が明確となるような、
When our bus was called that afternoon, we ran down the school steps.
とか、
the other girls all covered their heads before emerging from the door and climbing into the white Toyota van with benches in the back.
などの描写は入れておくべきだったでしょう。
また、できれば、
I asked Moniba, 'Why is there no-one here? Can you see it's not like it usually is?'
というような、襲撃を予感させる異様さを示す描写や、
I slumped forward on to Moniba, blood coming from my left ear, so the other bullets hit those near to me.
というような、悲惨さを簡潔に物語る「流血」の描写と、「三発打った」という、残りの二発の弾への言及はしておくべきだったかと。
そして、このような襲撃事件の背景、襲撃前の日常の描写と、襲撃&銃撃場面の凄惨さと異様さ、をより的確に理解した上で、「即興的なやりとり」に移っていたら、と思うのです。
「普通科の生徒たちによる、(私の主観では)健気な努力を払った『即興的な活動』」には好感を持ったものの、「これは、高校英語にとって、物凄く深刻な課題を突きつけられているんだな」と思って実践発表を見ていました。
ノーベル平和賞に輝く、平和と人権と教育に一家言ある十代の少女の話す「英語」を「ことばの教材」としてどのように扱うのか?ということ。
当然「平和や人権や教育」に関する「メッセージ」を受け取ることは容易ですが、それは、この教科書の素材文にある「語彙」や「表現」を特段必要としなかったのではないかと思うわけです。
であれば、「英語」の授業である必然性は薄い。「マララさん『について』書かれた」英語ではなく「マララさん『自身が書いた』」英語を、インプットとしてこれを読み・聞きすることに意味を見いだすとしても、その「彼女のことばそのもの」から、何を学ぶのか?という問いかけですね。
「技能統合」が囂しく叫ばれる、近年の高校英語ですが、「読み」や「聞き」での内容理解に依存した、他技能の活動の「質」を高めるためには、まず「理解」の確認が必要だと思うのです。
次に、これこれこういった活動をするには、少なくともこの部分は、読み落としてもらっては困る、聞き逃してもらっては困る、という部分の確認です。
では、ちゃんと読めたかどうかを確認するまで、読み以外の技能は封印するのか?選択肢としては、それも「アリ」だとは思いますが、他のやり方もあるでしょう。
例えば、ペアでの即興活動を、2,3ペア行った後で、教師の側から私が示したような「発問」を施し、再度「本文の正確な読み」を求める、とか。行きつ戻りつしてでも、読む価値のある、意見交換する価値のある題材であれば、という条件はつくと思いますが。
私が、「5ラウンドシステム」に希望を見いだす要因、「5ラウンドシステム」に見いだしている可能性も、その辺りにあるのだと思います。
因に、私が、このパート1の「映像的表現」「描写」で、着目させたいと思ったのは、前後関係を表わすけれども、後戻りせず時系列順に処理できることが望ましい beforeでした。”The other girls all covered their heads before emerging from the door.” のところ。
私たちの日常での、このことばの「生息域」としては、新幹線・のぞみ号の車内アナウンスの英語などがあげられるでしょう。
Ladies and gentlemen. Welcome to the SHINKANSEN. This is the NOZOMI superexpress bound for HAKATA. We will be stopping at SHIN-YOKOHAMA, NAGOYA, KYOTO, SHIN-OSAKA, SHIN-KOBE, OKAYAMA, FUKUYAMA, HIROSHIMA and KOKURA stations before arriving at HAKATA terminal.
の最後に出てくるbefore ですね。(嗚呼、この「のぞみ号」下りは、「新山口」に止まらない…。)
この before に関しては、高校卒業までに「実感」を持って欲しいと私が思う英語表現の一つです。拙ブログの過去ログだと、ここで扱っています。
http://tmrowing.hatenablog.com/entry/20100226
豪州のABCニュースの記事から、銃の暴発事故から幸運にも一命を取り留めた男に関する描写。The bullet went through his left arm before hitting his right forearm, shattering both bones.
このような、beforeを左から右、語順の通りに処理できるか、という投げかけをしていました。
ということで、苦言は呈しましたが、その苦言の半分(以上?)は、教科書の著者に向けられるべきものでした。今回の授業者である宮崎先生には感謝しています。
英語の授業が「ことばの授業」であることの意味をあらためて考えさせられる、授業研究であり、英授研なのでした。
また根岸先生の解答にかかわるもろもろや、5ラウンドシステムに関しては、また日を改めて書くかもしれません。
本日のBGM: You might as well smile (Glen Campbell)