見栄っ張りで気が強いのは海風のせい?

tmrowing2015-07-17

学期末の大童。
テスト明け、成績処理を終え、「大学入試センター」の説明協議会で博多まで出張。
駅を出たところに、「飾り山笠」。
実物を始めて間近で見ました。「見送り」は「サザエさん」でした。なぜ?

説明協議会会場のホールの冷房があまりにきつくて身も心も冷え冷え、山笠の感動も忘れるほど。

説明会終了後、「聖地巡礼」とばかりに、「皇子」でまみれてから帰ってきました。

例年であれば、三者懇談を終えて終業式なのですが、台風11号の被害が予想されるため、臨機応変。
地震と違い、来ることが分かっている以上は、対策を立てるまでです。

その台風直撃の日本列島ですが、暴風雨は台風からのみもたらされているのではありません。

国会も大荒れです。彼らの動きを見て、彼らの「まつりごと」を支えるのは「衆愚」なのだと改めて思いました。
強行採決をしても、自分たちにはダメージが少ないと高をくくっているのです。有権者は軽んじられているのに、政権与党を疑うことをしないのはなぜ?
そんな政権与党に力を与えているのは、選挙でその党または議員に投票した人たちと、投票に行かなかった人たち。変わらないと思って何もしないことも彼らの横暴に結果として与していることになります。
一方の野党はといえば、お決まりの「採決欠席」。ここでも有権者の一票は軽んじられています。

翻って、ここ数年来、私がずっと警鐘を鳴らしている英語の学習材・教材における『ドヤ本』の類はどうでしょう?
昔も、『トンデモ本』はあったのだと思います。でも、昔は「厚顔無恥」とか「夜郎自大」という言葉がまだ生きていたのだろうとも思います。作り手も買い手も、勘違いした人 は、「売れていることが正義」だなどと主張しますが、そもそも、その『ドヤ本』の売上げは「無理解」や「誤解」とその増幅・増長に基づいているのだということを無視しています。中には、敢えて無視している人もいることでしょう。

つながりやまとまりに欠け、そもそも英語になっていない、稚拙な「長文」に音声CDが付いていて、何度もその「英語もどき」で音読や暗唱をさせられていることに気づいていないようです。むしろ、それで英語力が伸びると思い込まされているかのよう。音読するに値する素材かの目利きが求められるはずの教師までが、盲目的に選択していませんか?

「入試頻出」などと謳って、現代英語の文法語法からいって、かなり難のある、不自然な表現が、基本例文として示されていたりします。それを「覚える」ことが 前提で、それに基づくあれやこれやの「問題演習」が課されていて、それがヨンギノーなど「使える英語」力の養成に効果的だと思い込まされていませんか?

「必修語・重要語」と言っても、あくまで入試の「過去問」が拠り所です。平均的・標準的な語彙の発達段階が示されることは稀です。望ましい、理想的な発達段階も同様。GSLなどの英語という言語の実態に基づく、基本語彙の統計的な裏付け・コーパスでの 裏付けのない、恣意的な「必修語・重要語」の暗記が、spaced rehearsal などの記憶のメカニズムを無視して、ゴリ押しされる。

ただ、語彙のレベル分けができても、まとまった分量の英語で、なぜ「つながり」と「まとまり」具合に差ができるのか?というのは、Text Inspectorなどのオンラインツールを活用しても、目安程度にしかなりません。やはり、「英語のできる人の目利き」が頼み、頼りなのです。

「教材の英語が稚拙だ」ということに、英語力がまだ未熟な生徒が「気づけない」のは一律に批判されるべきではありません。それに自力で気づくなら、既にかなりの英語力でしょうから。
ただ、その「難のある教材」を用いた学習環境やそれを用いた授業に大いに問題があるという認識や自覚が、多くの『ドヤ本』を選んでいる指導者には欠落しているように思うのです。教師の責任は重いですよ。

一番不幸なのは、『ドヤ本』著者の存在でも、編集者がその「ドヤさ加減」を矯めたり薄めたりできなかったことでもなく、学校で買わされたその『ドヤ本』の「ドヤさ加減」にある日気がつき、気づいたにもかかわらず、その『ドヤ本』をその後も使い続けなければならない生徒でしょう。

『阿Q正伝』の一節が脳裏に浮かびました。

「語法」について、上述しましたが、普段から英語を使いつづけていないと気づかないことも多々あります。
例えば、諺。
一字一句正確に、捩ることなく丸ごと口にすることは少ないように感じますが、私が学生時代に身につけた英語の諺に、

  • A drowning man will clutch at a straw. (溺れるものは藁をも掴む/藁にも縋る)

というものがあります。高校生から大学生にかけて、ですから、80年代の前半でしょうか。「catch at a strawは実際には稀で、clutch at a strawの方が一般的」というような解説をどこかで読み、その理解を、実体験で裏打ちしていたように思います。

今週、高2の授業で、所謂「分詞」を扱う時に、この諺を示していたので、「ハンドウアウトには、どっちで印刷していたっけ?」と確認したら、「clutch atです。」という答えが返ってきて、関連表現も交えて解説したばかりでした。ただ、気にはなっていたので、帰宅後に、Googleブックスを利用した、Ngram viewerで調べてみたところ、意外な結果になったのです。


デフォルトの年代設定が、1960-2008になっていて、そこでは、

  • 近年、catch at が急上昇しており、clutch at よりもヒット数は多い
  • 1960年代は圧倒的にclutch at の方がヒット数が多い

という解釈ができますが、ホンの少し遡ると、catch atの頻度が高いことがわかります。

時系列を追って眺めてみます。

私の語感は、自分が英語により多く接するようになった70年代終わりから80〜90年代にかけての実体験に依拠していると言えるのでしょう。そして、自分の中にいったん「語感」ができ上がってしまうと、それをupdateしていく努力を怠りがちだということに気づかされました。語感の上位互換の重要性とでも言いましょうか。

  • 普段の営み、不断の営み

があるから、「祭り」があるのです。

本日のBGM: 博多っ子純情 (TULIP)