伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎、そして…。

ELECの研修会を終えて帰山。
早速協議会の担当の方がアンケートをまとめて送ってくれました。深謝。

  • 満足:普通:不満 = 24:6:3

という感じです。午前中参加して午後は帰った方が4名、未提出の方が4名、未記入の方が2名。出席者に占める満足者の比率を単純なわり算で、24/39と考えると約61.5%で、「可」というところでしょうか。
アンケートのうち、ネガティブな意見をそのまま抜粋します。

<満足できなかった>
1. 午前とは対極的な内容であった。でも、昔書かれたものが格調高く、現代では忘れ去られてしまっていることを意識していく必要はある、私も読書が不足している。(中高 28年)
2. 正直なところもっと実践的な指導方法などが聞けると思っていたので残念でした。(中高 3年)
3. もっと授業のやり方を知りたかった。書籍の情報を得られたのは良かった。小規模の勉強会で、情報を共有した位の感想です。どれだけ英語ができて、ネイティブ感覚に近いのか知らないけど、同僚の教員からためになる話しを聞いた位のレベルだと思います。(公立高?年)

1.の方は、私と同じくらいの教職経験の方ですね。大変申し訳ありません。午前中の講師の方がお目当てで、私とは初遭遇なのでしょうか。確かに最初に「昔の教材」を示していますので、「過去礼讃」のような印象を持たれたかもしれませんが、最後には「現代の種々の英文」を示してあります。今の時代なら何をどのように「英作文眼で多読・精読する」のか、を考えてもらえればなあ、と思います。インターネットも、コンピュータを活用したコーパスもない時代に、「英語を生きて」いた教師たちが編んだ教材を、古いと斬り捨てるのは容易です。海外渡航も容易で、英語ネイティブとの接触も比べものにならないくらい豊富な現在、「基本例文」として示す「単文・短文」はどれほど豊かで、活き活きとし、かつ、覚えやすくなったでしょうか?
まずは、教師が「英語を生き」ることから、いきいきした英語表現の指導は可能になるように思うのです。

2と3の方は若い方でおそらく優秀な方なのでしょう。「効率よく、技術を身につけたい、身につけさせたい」という流れとは対極にあるのが本来のライティング指導なんじゃないでしょうか、という私のメッセージが全く届かなかったのは残念ですね。「実際の授業のやり方」を私ほどブログに書いて「晒している」人は、そんなに多くないと思うので、事前にブログをお読み下さい、とお願いしてあったのですけれど…。
このお二方のアンケートを読んで、「実践的」ってどういう意味なのか、気になっていました。
今回は、一番始めに、九州大学の入試問題の予備校の解答例と九州大の公開した標準解答例をもとに、英語の文章としての優劣を考えてもらいました。平均値とか最頻値とか、簡単に割り切れないほど、みなさんの評価はバラバラだった訳です。100語程度のナラティブでさえ、いかに「良い英語表現」の評価にバラツキが出るのか、ということを身を以て味わってもらってから、講座を開始したのですが、その意味を十分に伝えきれなかったのですね。反省します。

  • 指導法などの小手先のテクニックなど、どうでもいい。

とは言いません。ただ、「肝」は何なのか?ということを押さえずに、指導手順だけ真似したところで、私と同じような「実」は結べないでしょう。
「もっと、授業のやり方を知りたい」というんですけれど、生徒が違えばやり方は異なります。どうも、「ちゃんとやり方を教えてくれれば、私にもすぐに上手にできるんだから、ナラティブなんてまどろっこしいこと言ってもったいぶっていないで、早く『やり方』を教えなさい」という優等生にありがちな匂いがプンプンして、物凄く危うい気がしました。美味しいところだけをつまみ食いしたり、「大事な情報だけ」を掬い取る、というわけにいかないのがライティングなのですけれど…。これだけ、ネガティブな反応だと、後で資料読み返したりはしないんだろうなぁ。残念です。

ポジティブな意見からも若干名抜粋して、就寝前に読み返したいと思います。同じ講座の感想がこれだけ異なるのは、まさに、教室での授業と同じで、これが現実なのですね。

4. 英語で表現するうえで、精読をすることの重要性がはじめはよくわからなかったのですが、徐々に理解できました。パラグラフ・ライティングの指導をしていて、IdeaとWords(自分の頭にうかんだ日本語)の区別がついていない様子に頭を悩ませていましたが、生徒には精読を通して「ことば」そのものを意識した経験があまりないのだ、と分かりました。全体を通して自分の勉強不足を痛感しましたが、昨年の大井先生の研修をもとに実践している方向性はまちがっていないのだと安心もしました。(中高 4年)
6. 初めて、松井先生に授業を受けました。全て目からウロコ、大変感銘しましたと共に幅広い知識と教職経験、多くの時間を生徒の添削、授業準備に労力を費やされたことを知り、改めて、一からやり直したい気持になりました。○立高のグデグデな英語教育に嫌気がさし、受講しました。先生のおすすめの図書1冊からまず始めたいと思います。ありがとうございました。(公立高 19年)
14. 月・年の単位で私は松井道場に住み込んで修行したい!3時間ではとても足りない!これだけの文献を惜しげもなくscanし、1つ1つナンバリングし、これだけの資料を作る手間ひまとそこに松井先生がつぎこまれたpassionを思うと、心がふるえます・・・。というか、参加費もっと払わねば・・・という気になります。教室では教科書 (しかも多くの中学校では第三者によって決められた) をこなすことに汲々としてしまいがちですが、松井先生のお話しを伺い、ずっしりした資料・文献を手にしていると、我々はもっと教材にこだわらないといかんと思います。自分も良いモデルに出会いたいし、生徒たちにも出会わせたいし、そのためにも自分から探していきたいです。まずは、8月後半に向けてどっさり頂いたこの「宿題」をしっかり読まねば!!がんばります。がんばりたくなってきました。(国立中18.5年)

帰山後に振り返り、某SNSでもこの研修の話をしていたのですが、そこでのコメントでもなるほどなあ、という声がありましたので、ご本人の了解の元に引用します。

参加させていただき、14. の方と同じような感想をもちました (時間がなくアンケートに書ききれなかったのですが…)。午前の講師の方からは、「明日からすぐ使える指導案」を教えていただきましたが、松井先生からは、「今後英語教師として生きていく上でずっと背負っていかなければならない宿題」をいただいた気がしています。帰りの電車は2時間半くらい乗っていたのですが、脳が覚醒して一睡もできず、レジュメと資料を読み返しながら過ごしました。生き方がかわる (かもしれない)、という気がしています。本当にありがとうございました。

今回帰省と重なり参加できませんでした。↑の「今後英語教師として生きていく上でずっと背負っていかなければならない宿題」と言う先生の気持ちは、とてもよく分かります。「これ、明日から出来るわ」という研修は何だか心が軽くなって会場を後にするのですが、要するに自分の引き出しの中身も重くなってないのです。この仕事を始めて1年ほど経ったとき松井先生と出会えて、それ以来お会いするたび、書かれたものを読むたび、心は重くなります。けれど、目の前の生徒を相手にして悩んだときにヒントになるのは松井先生に教わった資料、視点、態度です。松井先生ほど生徒が何を習得できるように指導をデザインされているかが明確な指導者はまれだと感じています。
松井先生の講義を聞いても私は松井先生のような指導が出来るようにはなりませんが、自分の生徒の何を見て、何を教えなければならないかに大きな手がかりを得てきたと感じています。
何かを学ぶというのは本質的に、そんなふうに緩慢な、ある種もどかしい行為ではないでしょうか。

有り難いお言葉です。
普通は、お金を出して、遠くから参加する研修会なのだから、話しを聞くに付け「心が重くなる」ことを求めたりはしないでしょう。
「重さ」ということでは、過去ログのコメント覧で久保野りえ先生に言われたことを常に心しています。

このコメントの中で言及されている "Anniversary" の回は、

研修会の参加希望者に「事前にブログを読んで、心の準備を」と、公式の案内書にまで書いてもらっていたのですが、このあたりまで読む人は流石にいないでしょう。だって、すぐには見つからないのですから。
懇親会の席で話したことに、このブログの「検索性の低さ」があります。意図的に「情報検索」されにくいように書いていることもあります。テーマやキーワードなどカテゴリーを抽出し、ラベルを貼ったり、小見出しを細かく立てたりということをせずに、とにかく最後まで読んで、むむっ、と思って読み返したり、タイトルに隠された意味に気がついて、再度、全部を読み返すと腑に落ちたり、理解したと高を括って読み進めて、最後の「本日のBGM」で、どんでん返し!とかいった、捉え方が可能な「ナラティブ」を目指しています。奇しくも、講座で触れた「ナラティブ耐性」が試されるような書き方とでも言えばいいでしょうか。万人に開かれていない、読む人を選ぶブログになればいいなぁ、と。
教室での、目の前の生徒と創る授業なら、はなから「信頼関係」があるからうまく行くのではなくて、各回の授業で作ったり、綻んだり、それを修復したり、という営みの末、1年終わって、3年終わって、卒業してしばらくして振り返って、と「嗚呼、良かった」と本当に思えるには時間差があるものなので、私はむしろ、教育というもののそういう部分をこそ「信頼」しているのですけれど、今回のような講座は一発勝負です。ネガティブな反応を返してくれた方々も、生徒と同様に時間が解決してくれるかどうかは「?」ですね。御免なさい。
「残念」というキーワードで、思い出すエピソードがあります。
ライティングに関して、事細かな指導手順を示すことを敢えてしていないのですが、それは今に始まったことではなく、過去ログで

あたりをみると、6年前もそうであったことがわかります。でも、こうやって振り返ることができるのは「書いて残しておいたから」なんですよ。

  • そんなこと言ったって、6年あったら、中高一貫校だって、入学した生徒は卒業してしまうだろう!

と言いたい気持ちはよく分かります。ごもっともです。6年の間に、自分の目の前を通り過ぎていく生徒一人一人に、申し訳ないなぁ、と思いながら、それでも日々、遅々とした、もどかしい、緩慢な歩みで「森」を進むことを受け入れるのは、やはり大変です。でも、それを教室で許さなくなると、いろんな歪みが露呈してきて、ときに教師も生徒もその歪みに押しつぶされそうになるように感じます。
『学習英文法を見直したい』の拙稿にも書いた、この「森」の比喩ですが、教師の視座としても当てはまるように思います。誰かに書いてもらった地図をいくら覚えても、自分で歩く足取りの確かさを約束するものではありません。自分で歩いた足跡と自分の目で確かめた風景をもとに、あたかもソトから見たかのような、地図、全体像を描くのに必要なのは、測量術のような「スキル」だけではなく、強靱な足腰と柔軟な物の見方・考え方、そして自分が踏み入れたその「森」に対する「畏れ」のようなものだと思うのです。

今回、帰りの便の機内で読んでいたのは、
Michael Swan. 2012. Thinking about Language Teaching: Selected articles 1982-2011, Oxford University Press
詳細はこちら。

Swanが30年かかって得たものを、僅か数時間から数日間で読めるのは便利です。有り難いことです。「まとめる」「伝える」プロはこうでなければ、とは思います。でも、ここから、リレーの如くバトンを受け取るには、30年の分の歩みの持つ「重み」をも引き受ける覚悟が必要でしょう。
乗客はまばらでしたが、私は非常出口の横の座席で、attendantさんと真向かいの席に一人で座っていました。私がこの本を読んでいたので、

  • 英語を教えていらっしゃるんですか?

という彼女の質問から、彼女の学生時代の留学体験談、その中で、自分が英語ができるようになったなと実感したエピソードなどなど、楽しくお話しして帰ってきました。有り難うございます。
自分の学びを、こうして振り返れるのは成長の証なのだろうと思います。
過去ログの、

の「タイトル」「写真」「本文」あたりから振り返ってもらえれば幸いです。

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本日の晩酌: 松の壽・純米吟醸・無濾過生原酒・雄町55%精米 (栃木県) 、花巴・弓絃葉・純米原酒・無濾過生・山田錦70%精米 (奈良県)
本日のBGM: Let’s go slow (Jules Shear with Rob Shear)