”Only fools rush in, but ....”

tmrowing2012-05-12

週末の授業から、土曜日課外へ。
進学クラス高1は、「四角化で視覚化」のドリルを8まで。
倫太郎さんに教わった「A of BでBのA」を足場にして、<a lot of +名詞>へ。三歩進んで二歩下がるような、いつもの歩みで、「名詞」に迫ります。どれだけ、名詞好きなんだよ、という感じ。私自身が、中学生の時に何で悩み続けていたか、ということを辿り直す大いなるレビューでもあります。
名詞の分類、という時に、「可算不可算」とか「物質名詞」とか、そういうことばは、今のところ使いません。まずは、「人」「もの」「こと (がら)」の三分類。で次が「性別」と「数」です。「数」に関しては、日本語の名詞との最大の違いが現れるところですから、丁寧に。ドリルの前の「例」で提示しているのは、

a lot of students
a lot of people
a lot of money
a lot of water
a lot of love

これらを材料として、

  • 単数形ではなく、複数形だということを-sで終わることで示す名詞
  • 意味は複数だけれども、形の上では -sになっていない名詞
  • さっき、「-sにならない名詞」と思ったけれども、場合によっては-sになることがある名詞
  • 複数形に変わっても、-sにはならない名詞
  • 複数形に変わったのかどうか、その語だけではわからない名詞
  • 複数形にはならない名詞

などについて考えます。
私は、 “people” が苦手でした。日本語の「人」と「人々」の方が余程健全です。peopleはそれ自体が「人々」という複数を表す意味を持つ語なのに、その形は「単数形」である、ということが中学生の私には理解不能でした。”person” の複数形と思っていた時期もあります。一見、似たような語に、”couple” があります。これは、意味は複数だけれども、単数形、なぜなら「単位」だから、と納得しました。だから、aで始まる場合も、-sで終わる場合も悩みませんでしたが、peopleには手を焼きました。

  • a lot of people

とも言えて、

  • a people

とも言えて、
さらには

  • peoples

とも言える、という奇妙奇天烈な語をよく受け入れて過ごせるものだと、周りの級友たちを眺めていました。
「四角化」ドリルの8には、”fish” という語も出てきます。一般には<単複同形>などと説明されることのある名詞に分類されることが多いのでしょうか。でも、a fishは単数形で「一匹」ですから、この語とpeopleは全く違うということは今ならよく分かります。
そんな壮大なレビューを経て、『レベルアップ英文法』の素材文を使っての、記号付け。

  • Houston, Jefferson Junior High School, Ms. Smithなどの固有名詞や肩書き付きの名前の扱い。
  • everything, everyone が「代名詞」だとすると、いったい何の代わりとなっているのか?
  • We change classes and each class has different students in it. のit と、 They have a pool in their backyard. Many people do here. Can you believe it? のitと、I kicked my ball into the pool. When I got my ball, I fell into the pool. It was fun, but my mom got mad because my shoes got wet. のitの扱い。

英語学習者として、これまでに自分が歩んできた道のりで何を観察し、何を試し、何を身につけてきたか、その全てが問われます。悩み所では悩み、迷い所では迷う、を地で行く歩み。今日は掛け値なしにいい授業だったと言えます。でも、この授業ができるまで、25年かかってしまっているわけです。一人の教師にできることはたかが知れていますね。

進学クラス高2は、「ライティング」の流れで、cannot help –ingの用例収集で旅する週末。ホワイトボードに、20例文を目標に、「学級文庫」フル活用。お子ちゃま用の英英辞典でも、温度差ははっきりしています。 “It was so funny that I couldn’t help laughing.” では、用例を生き直すには十分な文脈がないので、初学者には不適切。せめて、itが何を指すのか、私はその時、どこにいたのか、が明らかになるような文脈が望まれます。 生徒には、

たとえば、結婚披露宴。最後のお色直しも済み、新郎新婦が並んで、両親に挨拶する場面。新婦が「いままで育ててくれてありがとう。今日から私はtmrowingさんと幸せになりますっ」と感動に包まれるはずのクライマックスで、新調したスーツに着替えて隣に堂々と立つ新郎のtmrowingさんの、ズボンのチャックが全開!

とでもいうような、「触れば体温が感じられる、話している人の顔が見える、斬れば血が滲むような用例を!」と繰り返し求めています。その意味では、必ずしも「コーパス」準拠の辞書がすぐれている訳ではありませんし、収録語数を減らした初学者用の辞書が適しているとも言えません。だからこそ、旧い版のものも含めて多種多様な辞書・参考書を「学級文庫」に置いてある訳です。
ボードに転記した生徒に英文を読み上げさせて、私が質問。意味と文脈を問うていきます。その中で、この表現の「肝」に気づかせる欲目。一段落したところで『政村本』のhelpのページを開いて、図解と解説を読ませて、天才の業に感謝。この項目の解説は必見ですよ。
土曜日課外は時間の余裕があるので、復習を兼ねて、3枚の写真からスモールトーク。

  • ケーキを前にした笑顔の少女
  • 妖艶なコスチュームを纏う女性アスリート
  • 金メダルを抱く銀盤のチャンピオン

誰もが見て分かる、フィギュアスケートのYu-na Kim選手の写真。
続いて、歌の書き取りへ。
エルビス・プレスリー。
書き取りといっても、falling in だけが空欄ですから簡単です。「フォーリンラブ」ではないですよ、と念を押して、結びつきと音とを確認。この教室だけ、無線LANが届くので、YouTubeのライブ映像で、プレスリーがいかに衝撃的だったかを見せておきました。
残りの時間は『コーパス口頭英作文』と『意味順英作文のススメ』のコラボ。悩み所、迷い所を個人個人の歩みで。意味順ボックスに入れていく、という一見単純な作業ですが、

I’m Japanese.
I’m from Hokkaido.
The dog is over there.

あたりは、悩んでいいところだと思っています。今日、「目から鱗」と思って、感動、納得した人も、

  • Where are you from?

での「どどいつ」扱いで、振り出しに戻るはず。まあ、週明けの授業で考えましょう。
昼食はカップメンで済ませて、午後からは本業で近くの湖まで。近く、といっても車で20分ほどかかるのですけれど。
1Xにフロートを取り付けての「操」艇練習。頭を抱えるような事態でも、比喩で済ませるように。オールから両手とも離したら沈みますよ。途中で、コースを行き来する、中国連盟合宿中の高校生漕手を見て学ぶ。早く、あんな風に漕げるようになりたい、と心から思ってくれたでしょうか。

帰宅後は、自治会の文書の整理、中間考査の作問等々。
上述のhelpの慣用表現に関して、ネット上で気になるやりとりを見つけました。

Thread: 'can't help doing' vs. 'can't but do'?
http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=1754043

という2年ほど前のやりとりですが、その中で、「この二つの表現のうち、”can’t but do” では、用いる動詞に制約があるので、interchangeableではない。」、という日本語ネイティブの方のコメントがありました。そのコメントに対して、Thomas Tompionという英語ネイティブの方 (おそらく、この板の常連さんでしょう) が、「この二つはinterchangeableである」とコメントしていて、私としては、そちらの意見の方が頷けるものでした。ちょっと長いですが、上記フォーラムから、引用します。

2.
1a. I couldn’t help but borrow 100,000 yen from Tom.
1b. I couldn’t help borrowing 100,000 yen from Tom.

I don't think one of these is more acceptable than the other. They are both strange because the formula is used for things which one does despite oneself (without wishing to, in advance). Now things which one does despite oneself are often emotions, and this idea may be at the heart of the article you cite (why haven't you linked the text for us? That would have been helpful). Borrowing is not something one does despite oneself, so both sentences 1a and 1b are pretty odd.

However, there are things which one does despite oneself which are not emotions, like most verbs of perception, seeing, hearing, noticing, and there are a lot of spontaneous reactions which are not strictly emotions either, like jumping, sneezing, and fainting. So my reaction to your article's rule is that these formulae are used mostly with things which one does despite oneself, without volition, and so they are used with many emotions, which are often spontaneous reactions, but there are verbs which indicate spontaneous reactions which are not emotions, and so the suggestion that these formulae are only used with verbs of emotion is incorrect.

Incidentally, borrow is used in both sentences; why doesn't that make both sentences unacceptable in the view of the writer of the article? Borrowing isn't a spontaneous reaction, and it is that which makes both sentences strange, in my view.

日本語母語話者の方の意見の根拠、出所は、と見てみると、

「cannot help doingとcannot help but doは同じ使い方をしてもいいのでしょうか」
http://www.biseisha.co.jp/lab/lab1/11.html

という記事。私も時々見ることのある「英文法Q&A」。大阪大学の岡田伸夫先生の連載でした。ただ、この回の内容は、「Edward Quackenbush先生にご教示いただいた内容をまとめたもの」ということで、英語ネイティブ、一個人としてのintuitionが示されていると理解しています。
私自身は日本語ネイティブですが、cannot help –ingでは-ingの部分にくる動詞というか、この表現の使い方に、やはり何らかの制約はあるように思います。
英語ネイティブの中にも明らかに制約あり、と見る人もいます。

  • T. D. ミントン 『日本人の英文法 完全治療クリニック』 (アルク、2007年)

では、この表現は、pp. 208-218まで、3項目に跨って取り上げられ、用例の検討も含めて丁寧な解説が施されていて、書名に恥じぬ名医の業だな、と思いました。
大学受験用の教材でも、ずいぶん前から、

  • 山口紹・Tom Gill 『大学入試英作文総合問題集』 (研究社、1998年)

では、別冊解答のp.15に、can’t help –ingの使用に関する受験生思いの親切な解説がなされていますし、最近の学習参考書でも、

  • 竹岡広信 『よくばり英作文』 (駿台文庫、2011年)

の、pp.98-99では、和文英訳の問題2題を使って、簡単ではありますが、注記はされています。
このように見てくると、高校現場ではそろそろ「適切」な例文が定着してもいい時期ではないかと思わずにはいられません。

さて、
先日も紹介した上坂洋史さんのブログ「英語教育レボリューション」の新しいエッセイを読みました。
(※2016年3月29日追記:現在では、全ての記事・データが削除されており、関連記事を読むことはできません。先方の都合のようですので、悪しからず、ご了解下さいますよう。)

エッセイ18「新制度の教科書における英文法の扱いについて」http://wordpower.blog84.fc2.com/blog-entry-52.html

  • 今では、こういう誠実な物づくりをしている人は希有な存在なのか…。

とエッセイの内容への共感とは裏腹に、英語教育界の現実に対して少し「残念だな」と思わざるを得ませんでした。
私は、前回引用した

の前に、

というエントリーを読み、次のようにコメントしていました。

時期を逸したコメントになりますがご容赦を。新課程の教科書検定が終わり、各社から『英語表現』の教科書も出てきていると思いますが、上坂さんの仰るレベルの「ディスコースとして練られた英語」を産 出することができそうな教科書は恐らくほとんど出版されないのではないか、と危惧します。多くは、現行課程の『オーラルコミュニケーション』の教科書に、 文法事項を配列した、帯にも襷にも短いものになるのではないでしょうか。短文の作文はおろか、まとまった作文の書き方も、「受験産業」頼み、となる暗黒の時代が懸念されます。英語教育界は、もっと中高レベルで「書くこと」にはどのような術、手当が必要なのかを本気で考えるべきだと思っています。

その時の上坂氏の回答は当該ページを読んで頂ければ分かると思います。その時点では、当然、他社がどんな教科書を作るかは分かっていない訳ですから、作り手としては、自分 (たち) の信念・理念・哲学に基づき、最良・最適と思える「もの」を作り、そこに「魂」を吹き込もうとするのです。
私はある会社の白表紙を見た時に、本当に我が目を疑いました。

これでは、「英語表現II」という科目で、現行課程のPlanet Blueや旧課程のWrite On、その更に前のPolestarの初版、などの「ライティング」を越える教科書は生まれてこないし、遙か昔の「英語IIC」の時代のSpeak & Write Betterや、Enjoy English Writing にさえ及ばないのではないか。

偽らざる思いです。
一昨年、私が担当したELEC協議会の夏期研修会の講座は、高校英語教室でこれまで取り組まれてきた「書くこと」の指導を振り返る内容を含むものでした。「新課程」で「ライティング」という科目が無くなったからといって、「書くこと」そのものの指導が終わるわけではない。私の先輩世代、先人がこれまで苦労をしてきたからこそ辿り着いた「現在地」があるのだから、その苦労を無にしてしまうことがあってはならない、そんな思いを胸に講座を進めてきて、終盤、本当に胸が締め付けられるというか、不甲斐なさ、悔しさが入り交じって、不覚にも落涙したことを今もリアルに思い出します。

昨年度から、いわゆる受験産業、予備校の「英作文」「自由英作文」「ライティング」のテキスト、受講ノート、解答解説を集め、精査しています。受験対策ではありません。今後、目の前に現れるであろう、「暗黒」や「混沌」に対応するためです。
最近入手した、河合塾の夏期講習「自由英作文」では、テキストの作りは真っ当な印象を受けたのですが、受講生に配られる、解説のプリントを見て「?」。
どこかで見覚えが…。
なんと、『Planet Blue』 (旺文社) の、

  • The Organization of a Paragraph

が英文も解説も、引用ではなく、そのまま丸々1ページコピーされているのです。笑いごとでは済まされません。出典を明記せず、著作権上問題がある、ということも勿論ですが、それ以前に、「テキスト」とは何のためにあるのか、自問自答すべきでしょう。なぜなら、そのプリントのタイトルには恐らく、講師自身がこう書いているのですから。

  • 自由英作文 入門編 補充プリント (1) 導入編 自由英作文とは?

私も検定教科書に10年関わりましたが、著者を辞めてもう、数年が経ちます。そして、検定教科書を書くことはもうないでしょうから、このような無断引用に目くじらを立てなくてもいいのかも知れません。
しかしながら、いくら「受験対策」だからといって、英語として、指導法として「お粗末なもの」を適当に「化粧して」、学習者を惑わすのは止めにしてもらいたいのです。高校現場の英語教員は、もっと誠実に、真摯に生徒に向き合って、英語力を伸ばそう、生徒の成長を手助けしようとしているはずですから。「今、目の前」の生徒、英語教室を考える時に、旧い世代も若い世代もありません。
何度でも言います。
「より良い英語で、より良い教材を!」

本日のBGM: Can’t help falling in love (Elvis Presley)

2012年5月13日追記:
cannot help -ing や cannot help but原形などの、cannot help のバリエーションに関しては、小西友七氏が「混交語法」として、『アメリカ英語の語法』(研究社、1981年) の pp.115-116で取り上げられていて、私が初めて読んだ高3の時からずっと気にしています。これまでの同僚だった英語ネイティブには必ず聞いてきましたが。回答には個人差もあり面倒な表現だな、というのが実感です。