訳ありの一品

私自身、大学入試を控えていたはずの高3の今頃になぜか『翻訳の世界』(バベル)を毎月読んでいた。別宮貞徳、安西徹雄、飛田茂雄、高橋泰邦などという名前を知り、さらに本を読んだりもした。当然、入試での即効性はない。誰に言われたわけではないし、当時の自分の英語力から言って、寄り道、無駄足、背伸びし過ぎ、そんなところだろう。そんなことはその時にわかっていたわけではない。ただ自分の求めるものへと向かう道で出会ってきただけのことだ。しかし、今、英語教師として、マテリアルライターとしての自分を考えると、18歳の自分がそういう自分でよかったなと思う。
で、訳。「わけ」ではなく、「やく」の話。
読解における日本語の利用と日本語訳の問題は最近の「英語教育界」ではまともに議論すらされないようで残念である。
昨日のエントリーでも言及した「東大生のノートなんたらかんたら」でも、コピーを使おうが手書きで本文を写そうが、読解の素材文には対応する和訳を作って書いているのである。過去問の素材文ではなく、教科書の本文に対して。
某所では相変わらず、直訳か意訳かなどということを議論していたりする。
英→日で考えれば、構文に忠実であれ、文字通りであれ、場面や目的を勘案するのであれ、どう処理するにしろ英語の表す「意味」や「アイデア」を日本語に移し替えているわけでしょう。単語レベルで考えたところで、英和辞書が与えている訳語自体が、「意味」を表しているのだから。ある語をとりあげて、その意訳という場合に、英英辞典の定義のような語義を日本語で書く学習者はいるでしょうか?やはり、日本語の中から語として対応しうる語を当てはめるのではないでしょうか?
そうするとやはり、翻訳語成立事情とかまで戻って考えるわけですよ。英語学習者としても英語教師としても。
「コミュニカティブ」などといったところで、英日・日英の翻訳からまったく自由になることはあり得ないのだから、

  • 柳父章
  • 楳垣実

とか、

  • 最所フミ

とか読んで自分自身が経験し、当たり前のように使い育ってきた言語事実を揺すぶることが、この仕事には必要だと思っていましたし、今も思っています。翻訳臭などというのであれば、文語・口語も含めて「言文一致」を追体験することが必要ではないかということで、二葉亭四迷よりも、山田美妙あたりを集中的に研究したりもしました。吉沢先生も関わった角川の『外来語の語源』で、訳語の生い立ちを辿ったりもしました。
そんなことをやっても大学入試の英文和訳指導や読解指導に即効性があるわけではないのはわかっています。
でも、詩歌、戯曲、パロディやパスティーシュからナンセンスまで、一作家が扱う文体よりも、一研究者が扱う文体よりも、一外国語教師が扱わざるを得ない文体の方が幅は広いのかもしれない、という感覚は、河野一郎先生に教わったことで身についた大事なものでした。畏れ、と言ってもいいかも知れません。
英語教師の端くれとして、文化の一翼とまでいかずとも、羽の一枚くらいは担っているという自負は持ち続けていたいと思います。

0限の高1は後置修飾を苦手としている生徒のために、クラス全体でドリル。『フォレスト』にあるSVOの文型の例文を中心に、そのOを前置(左方移動)し、接触節を作る練習。文と、文を作る要素の識別でもある。授与動詞でSVOOの文を変形させた時に、新情報旧情報で若干不自然になるものは、前置詞を活用して書き換え。授与動詞などということばは使わず、「キャッチボールの文型」と説明している。

  • キャッチャーが先に座っていれば、そこに安心してすぐにボールを投げ込む。キャッチャーは自分と離れているから「間接目的語」、ボールは自分が持っていて投げるのだから「直接目的語」

という説明。

  • キャッチャーが座ってない時にボールをいきなり投げてしまったら、いくら運動神経がよくても上手く捕れないから、リモコンでちゃんとキャッチャーまで届けるので、前置詞が必要。

という流れで文型の復習も。
高3は、リスニングへの架け橋。
自分で作った「東大特講リスニング」(ベネッセ)の原稿を利用。

  • 逆接・譲歩の流れに乗る

を徹底。ここでの頭の働かせ方は基本中の基本であるのに、なかなか適切な練習が出来る教材がない。あらためてよくできた教材だと自画自賛。これで東大の出題を模した練習問題ではなく、「ポイント特講」に特化した練習問題がもう少しあれば完璧だと思う。あとは、やるだけ。
高2は、各自での教科書本文の下調べ、音読練習が終わっているはずだったのだが、冒頭の数文でもうリピートが満足に出来ず。出直しで再度各自自習。漫然と音読、漫然と筆写で覚えられたのか?満足に出来ていないという事実を重く受け止めた方がよい。高1からこれまで、授業で、さらには学級文庫での中学再入門から高2レベルまでの段階的教材でどのようなお膳立てがあったのか、よく思い起こすことだ。例文を呪文のように音読したり筆写したりするのではなく、品詞レベルから成句までの語彙関連と文構造(文型や語順・動詞の活用・いわゆる準動詞の形合わせ・代名詞など指示語の受け継ぎ・前置詞の選択)を確実に押さえて、与えられた日本文をもとに、自分自身の頭で英語のチャンクから文へと作り上げていくプロセスを追体験することだ。今の自分には何がわかっていないから、この教科書で示されている英文が作れないのか?その問いを本気で自分に向けない者には、高2を終えさせるわけには行かないだろう。

進学校が嫌いな私が進学コースの担任をしているのがそもそもおかしいのだろうが、自分の担任するクラスでもあるので、進路指導の材料に『週刊東洋経済』のバックナンバーを教室へ。現在ホワイトボードには中国〜九州の主要国立大合格者・不合格者のセンター試験での平均点の各教科科目比較一覧を掲示してあるのだが、自分が大学に行って何をするのかをもっと真剣に考えて大学を選ぶべきだ。

  • 今の力で入れるところに入って、そこで他の学生よりも努力することで、他大との入学時のレベル差を解消し、卒業時には逆に差をつける

などという強い意志を持つのであれば、なぜ今、この高校でそれができないのだろう?今やっていることが、自分を成長・成熟させるための不可欠な要素だという実感が持てないことには、イベント志向、外発的動機付け依存から抜けられない。「努力できることも才能だ」、などという人がいるが、「だからどうした?」といわれたらそれまでだろう。そんな言い訳をしているから自分を伸ばせないのだと早く気づくことだ。

  • 自分のどんな小さな進歩にも喜ぶことが出来る

才能があるとすれば、そういう資質のことだろう。もういちどアーカイブで残してある講演録でも読んでおいて欲しい。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20040628

修理をお願いしていたオメガが復活。駅前の大村時計店へ。店主というかマイスター大村と談笑、というより時計講義。時計のことを話すのがうれしくてしょうがない、といった表情が素敵だ。直ると思っていなかっただけに私も嬉しい。ボーイズサイズのSeamaster 120 (Automatic / Date) で珍品であるようだ。ローターなど通常男性用のオメガの1/3の大きさしかないので、ピンも非常に細く衝撃に弱いのだとか。全然、知りませんでした。大事にしようっと。

さあ、明日は、ELEC同友会英語教育学会で上京。
自分が部長を務めるライティング研究部会は若手のエースを中心とした企画です。
天気は下り坂のようですが、テンションは上げて行きたいと思います。

本日のBGM: Time I moved on (Georgie Fame & Alan Price)

追記:この革ベルトの時計が修理済みのSeamaster。で、その下の二冊が逸品の単語集。研文書院の方は絶版ですが、開文社の方は健在です。受験に限らず、単語集を世に問おうという方は必読かと。