マヨネーズが苦手だ。
学生時代、1年間で約10か月、計3年半と日常生活のほとんどを合宿所で過ごしたわけだが、サラダにかけるマヨネーズがダメだった。主将になったときには、マヨネーズを使わないポテサラを作らせていたくらい。苦手なものを克服するのはストレスになる。
高いところが苦手だ。
高校の学校行事で何が困るといって、林間学校などでの登山。
東京にしばらく住んでいたが、東京タワーも登らないし、遊園地に行ってもすることがない。ディズニーランドは遠足の引率以外で行ったことがない。
行列が苦手だ。
行列してまで、食べたいものはほとんどない。週刊情報誌では、日本人の食文化にはカレーとラーメンと回転寿司と焼き肉しかないかのような特集を組むが、こういうものを放置しておいて学校で食育などというのは笑止。過去ログでも書いたが、「ファイト餃子」に並ぶんじゃない!買って自分の家で焼いて食え!
坂本龍一が苦手だ。
矢野顕子の音楽は聴くが坂本龍一の音楽は聴かない。細野晴臣はキッチュ、坂本龍一はアート、高橋幸宏はポップ。80年代前半、自分なりの物差しでYMOを計っていた。未だに聴いているのは、細野晴臣と幸宏。
ビジネス書が苦手だ。
書店で平積みされている、啓蒙書・啓発書の類も苦手。『週刊東洋経済』は読むけれど、『プレジデント』は?『プレジデントファミリー』のようなものは論外。
仕事を懸命にする人よりも、ビジネスモデルを売り物にする賢明な人が勝ち組に回る構図そのものが苦手だ。
真夏の太陽のように一点の曇りもない、屈託のない笑顔が苦手だ。
shyでawkwardなアメリカ人をいっぱい知っているだけに、「アメリカ人はYes/Noをハッキリ言う」とか「小さい頃からコミュニケーション能力を鍛えている」などという紋切り型のコミュニケーションスタイル評や類型化されたポジティブシンキングが鬱陶しい。
根が自虐的なので、冷蔵庫の灯りのような照度に惹かれる。吉本ばななは頼まれない限り読まないが、冷蔵庫の部分だけは共鳴した。そうそう自虐的といえば、業田良家(ごうだよしいえ)の『自虐の詩』、今再評価されているそうな。
小説家が出てきたついでに、村上春樹と大江健三郎の小説が苦手だ。
この人達の講演や対談とか批評は読み応えがあると思うのに。
読むといえば、一年に何度か、無性に寺田寅彦を読みたくなる。決まって読みたくなる随想があり、気がつくと同じ文庫が家から何冊も出て来たりする。大学の後輩のOと談笑していたときに、寺田寅彦の話題になり、
- 赤ん坊って、へその緒を通じてしか、酸素を取り入れて来なかったということは、それまで口や鼻から肺を通じて呼吸をしてこなかったということなのに、なぜ、生まれてきてすぐに呼吸が出来るのか?
という議論になったことがある。Oがまだ学生の頃だから、もう、20年位前だろうか?
結論はよく覚えていないが、「根拠はないが前向きな自信の象徴」として「寺田寅彦のへその緒」というキーワードだけが残ったのであった。
自分にとってのポジティブな姿勢の証は「寺田寅彦のへその緒」くらいで丁度良い。
2学期の終業式も済み、名ばかりの冬休み。
高3はセンターに向け補講の嵐で毎日朝から晩までぎっしり入っているのかと思いきや、意外に思いやりのある時間割だった。いえ、生徒に対しての思いやりですよ。高3の担任と相談しテキストを発注した。教材の選定は生徒も教師も気になるところだろう。
- 合格者の誰もが使っているが、使っている者が皆合格しているわけではない教材
には注意が必要だ。
単語集を例にとると、『ジーニアス』であれ、『ウィズダム』であれ、『レクシス』であれ、入試で問われる語義・語法が英和辞典に収録されていない、というケースはまずない。
イディオムや熟語と言われるようなものも同じだろう。
ではなぜ、単語集なのか?
類型を一覧で眺めたいのだろうか?
私自身、英語の学習で単語集を用いて英語の語彙が増えたという経験がないのだ。「だからお前の語彙力がそれだけ貧弱なのだ」というご批判は甘受する。リングで繋ぐカードの単語帳というものも作ったことがない。過去ログでも書いたと思うが、中学3年の12月くらいまでほとんど英語の勉強をしていなかったのだから無理もない。ひたすら洋楽を聴いていたくらいの英語との接点しかなかった。
語彙の整理の方法として定着したのは、読んだり(聴いたり)した英文の中から、気になる表現をタイプライターで打ち出すというもの。これは、高1から大学2年くらいまでず〜っと続けた。(これが『表現ノート』の原点でもある)
先日、浦島さんを訪問したときに、音楽関係の仕事もしている兄も一緒に話をしていたのだが、頷いてくれたのが、
- 好きなアーチストでも、新人でもそうだけど、新しいアルバムを買って聴いてみて、そのうち、1曲でも、1フレーズでも、いいところがあれば、買って良かった、と思う世代なんですよ。
ということ。
「はずれくじ10枚理論」を強要するわけではないが、無駄打ちがあるからこそのアタリなのである。
教材で「精選モノ」を求める人は、言ってみれば、「究極のコンピレーション」とか「ベスト・オブ・ベスト盤」を求める人なのであろう。捨て曲があっては困るのである。
でも、ハズレの価値が分からずして、どうしてアタリの本当の価値が分かるのか?歌だって、サビだけで書けるものではあるまいて。
はずれくじを引きたがらない人、捨て曲があっては困る人が、結果勝ち組として社会の要所を押さえているのが日本の現状なのかと思うと、打ち拉がれてしまう。
土曜日は本業。
ようやくまとまった雨が降ったのは良いが、モーターに乗る方は大変。今日も2X。
午前は約15km。アップ2kmに続いて3分漕。当初6発やってからダウンで6kmの予定だったが、レストで体温が下がるのを避け4発にして、ダウンは高めの強度で9kmに変更。
昼はピザを挟んで大学のコーチと打ち合わせ。
午後は12km。SR20-22のキャッスル。ようやく練習になった。エースキラーは午後上がってきて開口一番。
- 今日は充実していました。
などと吠えていたが、これが最低線。覚悟を決めなさい。
明日は晴れていたら1Xで強化合宿前の最終確認でもしようかと思うが、まあ、様子を見てからだな。
午後、大学生はエルゴメニュー作成の基礎データをとるということで、500m Maxと20分のスコアを記録していた模様。この後どうなりますか。
合宿に備え防寒具を見繕ってから帰宅。
夕飯はカレーうどんとクレソンなどハーブ入りのグリーンサラダ。当然、ドレッシングはマヨネーズではありません。
正月用に京都の津之喜に頼んでおいた地酒が届く。年内に封を切らないよう自制せねば。
某出版社編集部より、他の著者の初稿ゲラが送られてくる。年内に執筆にかからねば。
他の出版社の編集部から、編集会議の日程案が送られてくる。年明けに動けるよう、今抱えている仕事を終わらせねば。
Mコーチの見ている大学チームの年明けの練習日程がメールで届く。1月の連休を上手く使えば行けそうなので返信。
といろいろ見通しを立てても、明日のことは明日にならないと分からない。でも、明日になった時点でそれはもう今日なのだ。明日は来ることはないし、今日は二度と来ない。
- 一曲目の「大寒町」は二十二年前に作った。この新録音で僕は歌も生ギターもやり直しをしていない。歌う前に「二度目はないぞ」と心に誓って、一度だけギターをかき鳴らし、歌った。まだまだやる気はあるようだ。このアルバムはベストアルバムではないけれど、ちょっと立ち止まった時に心の中を廻っていた曲達を集めたものだ。そして僕はこのアルバムを八年間にわたって拘ってくれた様々な人に捧げます。(『鈴木博文 1987-1994』より)
本日のBGM: 大寒町(鈴木博文)