またまた「和訳」のけむり…

朝は本業。2007年の日本代表を決める重要な一日。小雨交じりではあったもののコンディションはまずまず。現在、ジュニア(U18)も合宿中なので、代表チームを率いるF先生、T先生などにご挨拶。近況を報告。昼から出校。
高2Acrostic第二ラウンドも無事終了。発表の前後で、DVDにしておいたUCバークリー校のLunch Poemsを見せる。本物との出会いが活かせたかどうか。来週月曜は最終ラウンド。立ち会えますように。

  • 英語力を身につけたいと望む学生はいても、それに必要な努力、忍耐心は持ち合わせていない。「面倒な文法の規則を覚えたり、単語や熟語や例文を何回も何回も書いたり発音したりして丸暗記するのはいやだ。もっと楽しいやり方で喋れるようになりたい」これが今の多数の学生の正直な希望らしい。分数や小数点の分からぬ大学生が多いという記事を読んだが、全国の平均的な大学生や院生に今月の課題文を課してみたら、どれくらいの正解率があるのであろうか。0.1%くらいではなかろうか。(行方昭夫「英文解釈練習」、『英語青年』2002年1月号、研究社出版)

「何回も何回も」と繰り返しているところに実感がこもっている。和訳否定派とでも言うべき人たちは、ではどのような発達段階で、「英語を英語で理解できるようになるのか」という手順を示すべきだ。松本亨氏以降から数えても何十年。英語教育が大衆化していく過程で、結局「音読」と「多読」しか具体的な方法論が残っていないのではないか。「自分の英語で言い換えながら英語を読んだり、聞いたりする」のは結構である。では、そもそもその言い換えの際に自分の口から出てくる英語の表現はいつ身につけることになっているのか?さらには、言い換える前の目標文、今、教材として学んでいる英文そのものはいったいいつになったら自分の口からでてくるようになるのか?パターンプラクティスを倉庫の奥から探し出してこいとでもいうのか。

  • 外国語を勉強する者は、自国語に対しても敏感なセンスを持っていなければ、上達を期待することはできない ---と、誰かが書いているのを読んだことがある。

と始まるのは、江川泰一郎「基本語法(中学課程篇)」、『現代英語教育講座6 英語の文法』(研究社、1965年)
この「形容詞」の項で、江川氏は、kind, good, even, wrong, easy, happyなど簡単と思われている語を示して注意を促している。指導要領が全く違うので現在と単純な比較は難しいが、以下の指摘に今風の英語教育者たちはどう答えるだろうか?

  • 要するに、形容詞の場合に限らず、われわれ教師は生徒が訳語にたよる危険にたえず注意を払ってやらなければならない。中学校の英語教育では、英文和訳ということがあまり問題にならないが、現実的に考えれば、生徒は(教師の指導がどうあろうとも)多かれ少なかれ頭の中でつねに英文和訳をやっているのではなかろうか。われわれの生徒が日本語を生活語としている以上、彼らが日本語の訳語にたよるという現実を無視することはできない。無視するとすれば、各リーダーの巻末の語い表の日本語は全部削除すべきであるし、虎の巻はもちろん、英和辞典の使用も禁ずるべきで、ついでに学校においても家庭においても、生徒が日本語を使うことを一切禁止するのがよい。/とにかく、英語を英語的に理解する上において、中学校の英文和訳をどう考えたらよいかを現実に即してもう少し研究すべきであると思う。「中学校の英文和訳」などと口にすると、それだけで時代錯誤と思われるような風潮には、反撥を感ずる。(p. 99)

「日本語使用禁止」というのは江川氏一流の皮肉なのだが、現在では学校を挙げて「イマージョン」的な取り組みをするところも出て来たので、嗤ってばかりもいられない。江川氏は、形容詞以外にもこのような「基礎基本」であり、一見「英語は英語で」という指導・学習がしやすいと思われる項目を取り上げている。「簡単に通り過ぎていいんですか?」と呼びかけているかのようだ。

  • I have a racket in my hand.
  • Just then two big robins came to the nest. They had something in their mouths.

などのinをどのように「実感」させ、「ことば」として定着させるか。私も流石に、授業でこのようなinを含む一文が出て来たときに、わざわざinという語のコアを15分かけてハートで感じられるように図解説明する覚悟はない。
この江川氏の指摘から40年以上が経過したのだが、実質的な研究は中高現場レベルでほとんど進展していないのではないだろうか。コーパスの研究も、シャドウイングと音読の科学も、袋小路文の研究も、多読も、脳機能論も面白いでしょう。でも、「その一文がわからない」「その一語がわからない」という初学者にとって何が英語を難しくしているのか?という地に足の着いた、授業と直接関連した研究をもっと見直した方がよい。英語教師にもいわゆる帰国子女が増えてきた今だからこそ、この江川氏の和訳に関する論考は再読する価値がある。
さて、私もかなりしつこいたちなので、先日取り上げたtriumphについて、手元の資料から少し抜粋を。和訳を否定する人は、この語義語源に関する蘊蓄をどのようにとらえるのだろうか?英語でオーラルイントロダクションをするのか?英語でサマリーを作るのか?

  • Triumphusの礼遇を与えられる将軍は、式の当日、郊外のCampus Martiusに勢ぞろいして、元老官をはじめ有司百官の公式出迎えを受けて都入りをした。戦利品をささげる将卒を先頭に、凱旋将軍はきょうばかりは神のいでたちで、頭上には月桂冠をいただき、馬車を駆って、威風四辺を払った。したがって楽人は戦捷の楽を奏し、捕虜はじゅずつなぎにされて、生き恥をさらした。Via Sacraの大通りをCapitoline山頂の神殿へと、Io Triumphe! の掛け声勇ましく大行列はねり進んだ。In triumph; triumphantlyなどの字句の真意もこれを念頭においてはじめて解することができる。(井上義昌編『英米故事伝説辞典』増補版、冨山房、1972年)

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本日のBGM: Voices Inside (Everything Is Everything) (Donny Hathaway)