複合技能としての「読み」

5月28日は新TOEICテスト実施日だった。巷の英語学習ブログではこぞって、感想がアップされているようだ。例によって、
「リーディングはいちいち日本語に訳している暇などなかった。今までの学校で教わってきた英語の読み方は役に立たない」というようなコメントがあちこちで聞かれる。本当にそうなのだろうか?そもそも学校で「英語の読み方」を教わったのだろうか?
CALLにせよ、教室の指導にせよ、英語を読んで内容理解の設問に答えるタイプの読解練習(あるいはテスト)を課す場合に、日本語を用いないでどのようなフィードバックを与えることが出来るのだろうか?和訳や日本語による要約を批判するのはたやすいが、学習者が英文を読み誤っている場合に、その原因が何で、どのように修正すれば正しい理解に達することが出来るのかを詳述してくれる教材(そして教師)はきわめて少ない。

  • 1. 日本語に逐一訳さなくとも理解できると学習者が思っており、訳さなくとも実際に理解できている英文
  • 2. 日本語に逐一訳さなくとも理解できると学習者が思っており、訳さないけれども実際には理解できていない英文
  • 3. 日本語に逐一訳さなければ理解できないと学習者が思っており、訳した結果理解できている英文
  • 4. 日本語に逐一訳さなければ理解できないと学習者が思っており、訳したけれども理解できていない英文

というような乱暴な分類をしたとしても、2,と4には多いに問題があることがわかるだろう。和訳否定派は、4.の批判には熱心だが、2.の実体解明をほとんどやってくれないのだ。Selective readingを唱える人は、「読めなくとも気にすることはない英文」の存在を指摘し、逐読する学習者を慰めてくれるのだが、では、なぜ、「その部分は読めなくても大勢に影響がない」と言えるのか?なぜ「その部分は主題とは余り関わりのない枝葉の部分である」と言えるのか?それは、部分部分を読みながら常に主題を仮定し、読み進めながらも自らが仮定した主題を修正し続けて統一した文脈を確立しているからではないのか?では、その部分の理解そのものが覚束無い学習者はいつになったら、「統一した主題をつかむためには絶対に読めなければならない英文」と「読めなくても気にすることのない英文」を識別できるようになるのだろうか?

  • 5. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと学習者が思っており、英語を英語のまま読み、理解できている英文
  • 6. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと学習者が思っており、英語を英語のまま読もうとするが理解できていない英文

というような学習者の心理面を考え併せると変数は増え、一般論では片付けにくくなる。特に、5.が理想的だと考えている指導者に当たった場合に、自分にとって6.の場合はどうすれば、5.へと移行するのかの筋道を併せて求めなければならない。ところが往々にして、

  • 7. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと教えられており、英語のまま理解できるレベルの英文でしか読解の練習をしない

という学習に終わってしまう危惧がある。私が100万語多読の考え方に賛成できないのはこのあたりである。

  • 8. 構文を正確に把握しなければ意味の理解が難しい英文を日本語に訳すことが英語を読むことだと教えられており、自分の英語力を遙かに超える英文ばかりを読み続ける

という学習に終始することも問題であるが、いつまでも子供だましの、という言い方が子供に失礼なら、いつまでもお膳立てされた英文ばかりを読んでいては「わからない」と思った瞬間に機能停止となってしまうだろう。わからない時に何が出来るか、間違った時にどのように軌道修正して正しい理解へと到達するか、教室での読解というのは教師がついている以上、本来何でもアリのはずではないのか?
9. 日本語と英語の対訳教材を読み、必要に応じて構文の解説と類例を学び、難易度を上げていく
10.スラスラと読める英文は英語のまま理解し、自分の英語力を超えた英文は日本語訳を頼りに読み進め、自分とのギャップを埋める
などもっと柔軟に取り組んではどうなのだろうか?