「100万語多書」と「英訳先渡しライティング」

今日はELEC同友会英語教育学会のライティング部会。帰宅は10時を過ぎ駅前で晩(?)飯。
11月の全国大会に向けてのミーティングも佳境。合間の雑談の中で出てきたのが、標題の概念。
ある概念を考えるときに、その対極概念を想起して比較分析し検証するという手法は広く行われているだろう。では、昨今流行の、「100万語多読」の対極概念として「100万語多書」は成立するだろうか?当然、100万語書いた時点で、100万語の多読はクリアしているわけである。
また、「和訳先渡しリーディング」の対極概念として「英訳先渡しライティング」は成立するだろうか?英訳を先に渡しておいて、その英語表現にいたるまでの様々な活動を授業でこなしていくとはどういうことか?というように考えていくと、対極概念による検証には多くの弱点があることが分かる。
鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書、2003年)では「未問の問いの立て方」という重要な指摘があったが、今日のところはパーマー、フリーズ、ラドー、リバーズ、ウィドウソン、クラッシェンなどなどを経て、SLAだなんだと言っているのに、今現在、一般の英語学習は「100万語多読」「音読」「シャドウイング」しかないかのような世間は健全なのだろうか?また、教室でも「和訳先渡し」がこれほどまでに注目されるというのはどういうわけなのか?というありきたりな問いかけをしておきます。
広島大の柳瀬氏の掲示板に「自己表現」にかかわるコメントをしてみたが、なかなか噛み合わない。が、自分のブログを離れて、違う文法で語る居心地の悪さを感じることがまず大切であることは理解している。もし、その掲示板から飛んできた方がいましたら、私の過去のブログ記事( http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050304 )でもお読み下さい。世間に与するということの意味が私には少し見えてきました。

今気になっている本:『誇大自己症候群』(岡田尊司、ちくま新書、2005年)
 
今日印象に残ったことば:
「ながいあいだ考えるための梃子として、使用にたえる言葉というのがある。」(木島始、『もうひとつの世界文学』朝日選書、1984年)