疑似分裂文、あるいは教材作成者の孤独

高校段階で必ず扱われる例文に以下のものがある。
Ted didn't want to play baseball. What he wanted to do was (to) play basketball.
(水光雅則編著『ランドマーク高校総合英語』(啓林館、1994年刊;絶版)
現在、文科省の教科書検定では、この(to)は省略の趨勢にあるようである。具体的に教科書そのままの英文を用いると後々面倒なので、一般論として検討できる英文を扱うべく、今はなき『ランドマーク』の例文を持ち出したことをご容赦願いたい。
類例を挙げれば、

  • What we want to do after school is (to) play basketball in the gym. などでの不定詞の扱いということである。

この問題は、関係代名詞whatによる同格節とみるか、疑似分裂文とみるかの問題を含んでいると思われるが、上述の What we want to do is... に関しては分裂文であり、toはあってもなくても、まったく問題ない。前世紀でもっともcomprehensiveな文法書と言われたCGEL(1985)の18.29(pp.1387-1388)ですでにこの項目は明確に説明されていて、「分裂文と同じ効果をもつ疑似分裂文の主部として用いられるWh-節中で、doが用いられている場合には、述部のtoはあってもなくてもよい。」ということで英語学者の間で通用しているのではないかと思う。(コーパスに基づいた21世紀の文法書といわれるLGSWE(1999年)では、cleftingの項目はあるものの、そこに現れた原形と不定詞の差異に関する言及は見られません。ただ新しければいいというわけではないですね)
この問題に関して、教養ある米国人ネイティブスピーカは次のような見解を示していて、興味深い。
「What we do is play basketball.に関しては、to不定詞および動名詞は使えない。理由は、we do の do を to play や playingに置き換えることができないため、すなわち、we to play や we playingは文をなさないため。これに対してwe do の do を play に置き換えると, we play basketball. のようにきちんと文が成り立つ。」

 英語を学習していると、ネイティブスピーカの説明を何でもかんでも有り難がる態度が身に付いてしまいやすいが、ネイティブスピーカのintuitionは個人差があり、かなりarbitraryなものである、というくらいの認識を持った方がよい。
まず、この説明では、以下の文が容認されることの説明がつかない。
主節の時制が過去

  • What we did is play basketball. → play をdidと置き換えることはできない。

主節の主語が三人称

  • What he does is play basketball. → play を does と置き換えることはできない。

したがって「述部の動詞句の部分を置き換えられるかどうか」をテストとすることには不備があることになる。
さらなる用例をあげておこう。CGELより引用

  • What he's done is (to) spoil the whole thing.
  • What John did to his suit is (to) ruin it.
  • What I'm going to do is (to) teach him a lesson.

同書ではさらに、主部に進行形(be going to を除いて)が用いられる場合には、述部に-ing形が用いられるとしているが、ここでは動名詞という用語は用いていない。(現在分詞ととらえていいのではないかと思います。)

  • What I'm doing is teaching him a lesson.

日本では強調構文といわれている項目だが、こういうのは分裂文と疑似分裂文の語法に着目して、教師用指導書で詳しく触れておくことで対応できる問題であろう。
今年の4月には、教室に新たな教科書が多々届けられると思うが、このような項目がどう扱われているか、たまには目を凝らして調べてみて欲しい。