「地図は現地ではない」

大学時代のW先生の言葉。大修館から出ている『これからの英語教師』の中にも、このタイトルで持論が展開されていた。『これから…』を読んでから、20年が経とうとして、ようやく、師の言わんとすることが実感できた、というか自分の中でバランスが取れるようになった。「地図と現地」の比喩を使って本質に迫ろうという試み自体がすでに「現地」から離れていくことになることを承知で、一言。指導要領で示されている「実践的コミュニケーション能力」。「的」である以上、それは現地ではなく「地図」である。その「地図の限界」を真に理解してタスクやシラバスを展開しているか?または、「使用場面」。中学では、「実際の言語の使用場面」高校では「情報の受け手や送り手になる」ような「具体的な言語の使用場面」という記述で表されている内容が本当に「現地」であるのか、を常にわきまえて、英語の授業を語っているか?教員研修で「モデル」として示される、「実際の言語の使用場面」の多くは、make-believeな、「擬似的な場面」に過ぎない。教室外の言語使用の場面を、「現地」として教室内に持ち込むことができない以上、問題は教室内活動の結果英語力がつくかどうかなのであって、場面の「もっともらしさは」、地図の縮尺や、図法の差異(メルカトルとかエケルトとか)程度の要因に過ぎない。「地図」でしかないことをわきまえた上で、最大限に活用すべきなのである。
今日、言いたかったことは、もっと教育そのものに関することである。
現場の教員は、「大学の教員や、文部官僚、指導主事などは、現場の経験に乏しいにもかかわらず、机上の論理を押しつける」、「現場には現場にしかわからない苦しみ、痛みがある」という苦情をいうことがある。これを禁句にしようというのが、今日の提言である。この「教育現場至上主義」で言えば、「中学の現場は高校なんかくらべものにならないくらい厳しい」、「定時制の現場は、進学校なんかとくらべものにならないくらい厳しい」、となってしまうだろう。「だから、口を出すな」では議論は成熟しない。比喩ついでに、「子育て」で考えてみよう。「あなたみたいに自分の子供を育てたことのない人に、人の子供が教育できるわけないでしょ」という論がいかに乱暴か。同じレベルで、「男には実際に子供を産む女の痛みがわからないのよ」という論がいかに乱暴か。問題は、「地図」をもってして、いかに「現地」の真実に迫れるか、ということである。「地図しか知らないものは現地を語るな」という論は乱暴であるということを、「現地」の側から言わない限り、状況は好転しないのだと思っている。
W先生はこうも言っていた。「生徒の苦しみを追体験すること」。教師にとって学習者としての自分すら、過去の「地図」でしかない。「学習者中心」の視点というのは、そういうことであろう。