英学の徒としての中村 敬

今の20代の英語教師の何%が中村敬という人物を知っているだろうか?30代の英語教師はどのくらい中村敬氏のことを知っているだろうか?そして40代にさしかかった我々の世代は、中村敬氏が一貫して主張してきたメッセージをどれほどしっかりと受け止めているだろうか?
広島大学の柳瀬陽介氏のサイトに、中村敬著『なぜ「英語」が問題なのか』(三元社)の書評が掲載されている。(2/11付け)
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review.html#050211
柳瀬氏は大学の英語教育に携わる人であるが、誠実にこうコメントしている。
「中村敬さんという一人の英語教師-学者の研究と思想の深まりを玩味できる本です。「深み」というのは、私たち英語教育関係者が急速に失いつつある (あるいは既に失ってしまった)特質かもしれません。若い人にぜひ読んでいただきたいですし、また、英語教育の権力の座にいる人は、一度は目を通すべき書であると私は考えます。」
乾いたところから、後付の論評をする輩の多い日本の英語教育界において、勇気のいる視座だと思う。
さて、その書評でどきっとさせられるのは次のような中村氏の言葉が引かれる時だろう。
『日本の英語教育にとって不幸なことは、政治的無意識のリーダーたちに先導役を任せたことだった。そのリーダーたちの多くは、米国直輸入の応用言語学の旗手で、その理論的根拠を現代言語学に求めたことだった。現代言語学の不幸は、人間の営みともっとも深い関係にあることばの本質に迫ろうとして、言語理論の精密化を追求すればするほど、ことばが、人間の営みから切り離されてしまうという逆説にある。こうした 不幸は英語教育にも持ち込まれた。戦後フルブライトやガリオアの留学生としてアメリカに留学した無数の英語教師や英語学者が帰国して、日本の英語教育界に大きな影響を与えはじめるのは50年代の中葉からであるが、政治や経済から切断された彼等の言語教育思想は今日までしぶとく引き継がれている。』
柳瀬氏はこう結んでいる。
「いろいろと考えさせる本です。考えることを省くことが、まるで進歩だといわんばかりの現状の中で、重要な問題提起をする本となっています。
『こういう疑問が起こったのは、私が「英学」の伝統を受け継ぐほぼ最後の世代の1人であるからだと思っている。つまり、「英学」は、英語の特定分野のテクノクラートではなく、ダビンチ的(英語の)「万能選手」を育てたのである。テクノクラートと万能選手は、しばしば相容れない。自閉的な英語研究に没頭すればするほど英語の正体が見えなくなるのではないか、と考えた。実は、私は今でもそう考えている。(233)』
現代の英語教育研究者というテクノクラートには、「英語」が見えているのでしょうか。「深み」も「慎み」も失いつつある(あるいは既に失ってしまった)私自身、いろいろ考えさせられました。一読をお勧めします。」
私も全く同感である。久々に膝を打つ書評を目にしてうれしくなるとともに、英語教師としての責任感が一層強まった。
中村敬氏に関して更に知りたいという人は
同じく三元社から、峯村勝氏との共著

  • 『幻の英語教材』---三省堂の教科書『ファースト』シリーズの改編事件について詳しく触れられている
  • 『外国語教育とイデオロギー』(近代文藝社)、
  • 『英語はどんな言語か -- 英語の社会的特性』(三省堂)

などの社会言語学的考察に加え

  • 『私説英語教育論』(研究社)

などに見られる英語教育のスタンス
そして、ことばの本質に対する鋭い感性を見せる

  • 『イギリスのうた』(研究社)
  • 『ファースト英和辞典』(三省堂)

など、是非手にとって読み込んで、中村氏の輪郭に触れて欲しい。