Anniversary

最近の日本の生徒・学生そして教師の多くが、

  • 問題集を何周する。
  • 教材をつぶす。

という表現を用いている。これが気になる。
私の、ライティング指導シラバス、否応なしに受験指導を呑み込み、それを超えたところにある授業シラバスを構築したいという衝動もこの違和感と根が同じかもしれない。
英語という教科に関していえば、どんなに優れた大学入試問題にも、解答がある(ことになっている)。それを集めたり元にしたりした教材を何周しようが、所詮、誰かが用意した答えをなぞるだけであり、出題者・作問者の意向を汲み取りそれにいかに近づくことができるかという「ニアピン」を競うゲームに参加しているわけである。
ライティングの実践を例にとると、予備校の先生(や「進学校」の先生もかな?)などは、

  1. 正確な構文の知識
  2. 文法の理解
  3. 語い力

が必要だ、と力説してくれる。そして、「高2の終わりまで、どんなに遅くとも高3の夏までには、この3つを全部終わらせよ!」などと発破をかける。がしかし、どうしたらこれら3つがマスターできるのかについては、あまり教えてくれない。とにかく、これが大事なのだから、と高1から高2くらいまでに『英語の構文XXX』とか『精選必修文法語法○○』など教材を指定されて、テストを繰り返したりしてひたすら覚えるという学習が主となる。とすれば、教材は「周回トラック」となるのも無理はない。ただ、誰かに精選してもらった知識をひな鳥よろしく口を開けて呑み込むことを学びだと思わない方がよい。学習者は心のどこかで、「他人が精選した教材ほど警戒すべきものはない」という意識を残しておいた方がよいのだ。

  • 学校の授業は本来、その前年までに習得しておくべき知識や技能が習得出来ていないところからスタートするものだ。

と思ったらどうなのだろうか?とにかく、全部やり終えてからライティングをスタートするのではなく、ライティングをやりながら全て身につけてもらうのである。かつ進み、かつ戻り、教師の敷いたレールを時々落ちたり、こっちが落とされたりしながら、一緒に授業を作って行く方がお互いに精神衛生上健全ではないのか?

  • 大学入試問題にいかに効率よく、効果的に解答するか

という最終目標を据えるのではなく、

  • もっと得体の知れない、出口がどこにあるのか、そもそもゴールを目指しているのかも怪しいような足取りの中で藻掻き苦しむ間に入試というハードルを既にクリアーしている

そんな取り組みが出来ないものか、と本気で思う。
今日は母の命日。
午後は年休を取って、普段平日に出来ない銀行窓口や郵便局巡り。
12月分の原稿のノルマを計算。少しだけ速いペースで進めておく。
北海道イベントで参加してくれていた私立のH高の先生から相談のメール。あの学校の先生が、こんなに悩んでいるとは思わなかったので、ちょっとびっくり。誠実で切実だからこその悩みなのだろう。
立命館大の山岡先生からメールが届く。送った資料が大学の授業で役に立ったようである。もし、私の実践が大学入試を最終目標にしていたら、その実践から大学生が学ぼうとは思ってくれないだろう。では、難関大学の学生が、中堅レベルといわれる公立高校での実践を下敷きにしたシラバスや実践例から何を学ぶのか?そんなことを、山岡先生と今度ゆっくりと語ってみたい。
さて、
中教審が「論文博士」の制度を廃止し「課程博士」に一本化しよう、という提言をすると報じられてからしばらく経つのだが、いつごろ実行に移されるのだろうか。日本では「博士」自体が何か特別なものであるらしい。最近も、公立校の教員採用の段階で「博士」を別枠で採ろうという自治体が現れた。全国学力テストで好成績を修め意気軒昂な秋田県である。自然科学系ならともかく、人文系であれば、小中高の教員の資質が学士と博士とに雲泥の差があるとはとても思えない。むしろ、教育現場での経験を積みながら、それと並行して学究の道を進める制度をこそ普及、保証すべきではないのか。
このニュースを聞いて、真っ先に思い浮かべたのが、G. スタイナー『言語と沈黙』(せりか書房、1971年)の一章。
「英国紳士の教化ために --- <<英文科>>はこれでいいか」(上、pp. 123 - 150)
原著の出版から40年。スタイナーは、今ではあまり誰も相手にしていないようなのだが、人文系の学問・研究に関するこんな一節がある。

  • 文学の場合、もともと博士論文のための学問的研究といえば、価値あるテキストを校訂することだったが、校訂するだけの価値あるテキストは、ますます少なくなってゆくし、明らかにすべき歴史的諸問題・専門的諸問題は、ますます内実のないものになってゆく。それにつれて論文作成全体が、ますます貧相なものになる。だいたい主題らしい主題を探すことさえ、すでに一苦労なのだ。多くの博士論文、とりわけ無難といわれる論文は重箱の隅をつつくような事柄を扱うか、恐ろしく狭い事柄だけを扱うから、論文を作成する学生当人が、自分のやっていることに敬意を払えなくなっている。

日本の現状はどうなっているだろうか?

  • 第一級の文学について何かきわめて新しいことをいえる者などはほとんどいないのだし、若いうちにそんなことができるという考えからして、ほとんど逆説的である。文学をやるには、文学とともに生き、文学によって生きることが、大いに必要なのである。

この「文学」のところを「教育」と置き換えて読んでみたらスタイナーに叱責されるだろうか。

  • あたりまえの日常生活をしながら読んでもよく、また世に教養人と自任するほどの人なら当然読んでいる小説・詩・戯曲---こういうものを人が読むとき、正確に言って、いったい何がおこり何がなされているのだろうか。

このあたりは、まだ誠実というか、ナイーブというか、単なる問題提起、と受け流すこともたやすい。が、次のような言葉が出てくると、反応に困る。

  • われわれが訓練や研究で具体的に行うことは書かれたテキストに意識を集中させることだ。この意識集中は実生活でのわれわれの倫理的反応の鋭さと迅速さを減退させてしまうことが、少なくともありうる。この訓練によって、想像上のもの・戯曲や小説のなかの登場人物・詩の中から把みとった精神状態のほうを心理的倫理的に信用してしまうようになっているために、現実の世界と一枚のものになること・現実経験の世界を心にとめることのほうがかえって難しくなりかねないのだ(中略)こうして、詩のなかの泣き叫ぶ声は、現実に外の往来で泣き叫ぶ声よりも、より大きな・ずっと火急の・ずっと現実味のある声に聞こえるようになりかねないのだ。小説のなかの死は、隣の部屋で起こった死よりも、ずっと力強くわれわれを感動させかねない。
  • 書かれた言葉に、遙かな昔のテキストの細部に、死んで久しい時の経つ詩人の生涯にうまりこむとき、うまりこんだわれわれの感情は、目前のなまなましい現実と必要にたいする感覚を鈍らせてしまうということ、このことは少なくともありうることであろう。(以上、由良君美訳)

現実と真理の鬩ぎ合い。
「人間が人間らしくある」ために、学問には何が出来るのか?学ぶということがどのように、われわれの人間性を豊かにするのか?
私の師匠は「大学で学ぶことは須く机上の空論で良い」と喝破した。「その論が何故、現場で窒息するのかを身をもって体験する」ことを私(たち弟子)に求めていたのだと思う。では、「教育学博士」は教室に何をもたらしてくれるだろうか?紋切り型ではないとはいえ「答え」を求めている時点で、すでに泥沼に嵌っているのかもしれない。問い続けることにこそ意味があるのだろう。

  • 本当の自分の現実はどこに?

かつて、高校に入ったばかりの頃、「こんなに充実した、日々の生活、やりがいのある自分の人生が、もし、誰かのフィクションだったら?」という主題で小説まがいのモノを書いていたことがある。その誰かのフィクションも、ロシアの人形よろしく、入れ子の中に入れ子…と続いていくことで、畏れのようなものを出したかったのだが、青かったなぁ。

  • <コトバの哲学>は、文学批評やアカデミックな文学研究が習い性となって忘れてしまっている、あの根底からの<驚き>をこめて、つぎの事実に回帰してゆくことになろう。すなわち、言語は人間というものを明確に限定する秘蹟であるという事実、言語においてこそ人間の正体と人間の歴史的な風貌が他に求めがたいほどくっきりと現れる、という事実に。(『言語と沈黙』上、はしがきより;由良君美訳)

本日のBGM: Trade in (Lou Reed)