開店休業の本業を脇に、生業に勤しむ休日は久しぶり。
いくつか論文の読み返し。
イランの研究者のものが冒頭の用語の整理、リサーチデザインも含めて、堅実なものだった。日本ではおそらく高く評価されない類のものだろうけれど。
週末は冷え込んだが、週明けは曇天から雨模様。
授業は、進学クラスのみ。
高1は、サイドリーダーの『オリバーツイスト』の読み比べ。週末課題で与えていた1つに加えて、5つ別な本から同じ場面 (“Please, sir, I want some more.”) を抜粋。合計で6つの異なる描写記述を読む課題。英語ネイティブの子供向けなのに、本当に子供騙しと言うくらい簡略化した「語り」もあれば、外国語学習者向けで、語彙は制限してあっても、細やかな描写や流れを活かしているものもあります。明日くらいで「読み比べてみて分かった!」と何か見えてくるかも知れないし、「こんなのたくさんあったって、わかんないよ…」と何も見えずに溺れてしまうかも知れない。出たとこ勝負です。私と彼らの「気づき」は違いますから。時には痛みだったり、しこりだったりが残るかも知れません。「きづきづきづき」。でも今回ダメでも、そのうちなんとかなるでしょう。彼のそのうち、と彼女のそのうちは違いますから。「うちはうち」。作品やその英語からあまり多くは学べなくとも、自分の足跡からは少しは学べると期待します。
高2は、『英文日記』に関するレポートのダメだし。こちらは「喝」。お粗末すぎます。
A3で8枚文くらいに相当する英文とその添削例を、3日に渡って処理したはずなのです。1枚分、1時間とすれば合計8時間。そのノートの見開き2頁は自分が8時間生きた証になっていますか?『千の風になって』じゃないけれど、そんなんじゃ、「そこにあなたはいません」から!本当に、誰かから問題を与えられないと学べないことが大問題です。あくまでも私の読解指導とライティング指導の経験則ですが、根本的な情報処理能力の課題としては、「非連続テキスト」の読解が不得手な者は、文字による「添削」を処理することに困難を感じることが多いように感じます。誰かの発話の途中でそれを受け継いで話しを続けたり完結させたりすることが難しいのと何か関連があるかも知れません。この手の研究をご存じの方がいましたらご教示下さい。
放課後は、某社の責任者に東京からわざわざ学校に来て頂いて、筋を通す機会を設けました。
事情説明 (= 言い訳) を聞いて、私の方からは、いろいろと英語教育や教材作成に関わる理念を話し、「良い英語で、良い教材を」という私のモットーと、作り手として「使い手の思いを感じる」ことの重要性を訴えました。途中で、類書との差異化について語っている時に、奇しくも某先生の話題になったのですが、「英語に関して、ウチで何かお願いするということはもうないだろうと…」と率直な評価を述べられました。ああ、やっぱり、分かる人には分かるんだなと少し安心。
最後に、
高校に入ってきて、伸びる生徒と、それほど伸びない生徒というか、逆に、どんどん下降していってしまう生徒がいると思うのですが、その分岐点は何でしょうか?
という究極とも言える質問を受けたので、
中学校で、成績が上位の生徒だけでなく、中位も、下位も、皆、塾に行っていたりします。そこで、いい先生に当たって本質的な「学び」が身についていれば良いのですが、ただ単に「先取り」とか「過去問演習」「予想問題演習」での「解法」の虜になっていると、「その問題はやったことがあるからできる」だけで、積み重なったり、連なったりして「伸びる」チャンスを逸するように思います。本校では、高1の2学期の、それも終わりの方でようやく「英語I」の教科書に入ります。それまでは、中学レベルの言語材料と英語のスキルの養成を徹底します。「自分が楽に呼吸できる水の深さ、波の高さのレベルの教材で大量に泳ぐ練習」でなければ、本当の力は身につかない。でも、自分の今の力よりも上の教材も扱わないと、自分の力は伸びない。で、どうするか?語彙力養成を常に先行するということと、日本語訳や解説という「浮き輪」を利用した多読多聴と精読精聴の行ったり来たりです。
と答えておきました。学級文庫も見てもらえると良かったんですが、生徒が居残り勉強してましたからね。過去ログの写真をご覧下さい。
さて、
過日、FBでも言及しましたが、あるメディアの英語講座で取り上げられていた「否定疑問」。
英語を使う人は、どういう時に否定疑問を選択するのか?という心的態度とか、相手への働きかけ、世界の切り取り方という部分の記述や解説がすっかり抜け落ち、「問題を解く」ことに価値を見いだすかのような「対処法」でした。
私の言語体験で、この否定疑問を使う「心理」が本当の意味で「わかった!」という瞬間は映画です。
“Shoot the moon” という80年代の作品。確か、ダイアン・キートンが主演だったのではないかと記憶しています。夫婦と親子の愛情がうまく描き出されているシーンがありました。
子供が、
“Don’t you love her?”
と尋ねるシーン。父親は、
“I guess I do.”
と答えていました。今、シナリオも何も手元になく、自分の記憶のみで書いていますので、本当は正しいセリフではないのかも知れませんが、当時の私にはそう聞こえていたのです。この、信じたい、でも口を開けば責める言葉が溢れてしまうかのような子供の心理、後ろめたさもあり、申し訳無さもある分、距離があるけれども、自分の本当の気持ちと向き合っていることだけは言っておきたい父親。静かだけれども、お互いの心理戦とも言えるやりとり。自分自身の子供の頃の体験とも相まって感情移入して映画を観ていました。
今、wikiを調べたら、1982年作品。そうそう、アラン・パーカー監督ということで新宿のシネスクに見に行ったのでした。日本公開が85年というから、大学の3年か4年の頃ですね。
この場面で、「Don’t の notを無視して考える」なんてことを聞き手がやる訳はないし、やる意味がないと思うのです。
初学者は無理に使わなくてもいっこうに構わないと思いますが、中級以上であれば、否定疑問の使い処、話者がその形を選択するに足るリアリティーを教材の中に盛り込んで欲しいと思いますね。
私が授業で扱っているのは、<自分で使えなくても気にしない。聞かれたら、助動詞で判断し、Y/Nのラベルを貼る>という指針です。「do loveかdon’t loveかを考えて、do ならYesでdon’tならNoでラベルを貼る。」という時に、助動詞としての肯定文のdoの心的態度 (indeedとかin factのような感覚) が身についていることが肝ですかね。
英語 映画って、本当にいいものですね。
本日のBGM: the moon’s a harsh mistress (Glen Campbell)