「それはあなたです!」

仕事始め。
まずは、皮膚科へ。新年のご挨拶。右の踝は、オスバンつけても滲みて痛いくらいには回復。左の踝はもう少し経過を見ることに。流石に私の火傷、ねばり強い。
出校途中に郵便局で年賀状投函。
出校後は、事務室にご挨拶、職員室でご挨拶。
年賀状の整理と職場に届いていた書籍の整理で、2010年、私の英語教育のスタートです。
・『英語青年』 1966年8月号、「Evelyn Waughを悼む」

  • お目当ては篠田一士氏の寄稿だったのだが、「新刊書架」に思わぬ収穫が。『小島信夫文学論集』 (晶文社) の書評を木島始氏が書いている。さぞかし、スリリングな時代だったのだろうなぁ。

吉沢美穂 『教科書を使いこなす工夫』 (大修館書店、1981年)

  • 「気づき」が大流行の昨今の言語教育ではあるが、既習の何を用いて未習得の何に気づかせようと狙ってタスクを設計するのか、本当に分かっている人は少ない。仕掛けとしての「気づき」のために、今一度読み直されるべき過去の本であろう。コミュニケーションに関連して、pp.17-20で用いられた図解は、宮田幸一の『実践英語教育法』 (大修館書店、1967年) の、第4章「話しの回路」 (pp. 37-41) で示されたものを思い起こさせてくれた。宮田が何を思って、その後の第5章以降を詳述したのか、ようやく理解できた気がした。

・W.W. Smith 『アメリカ口語表現法教本 –日本人に多い誤りとその対策--』 (英宝社、1976年)

  • まだ駆け出しの頃、このブログでも時折言及しているY先生が私の隣の席でよく見ていたハンドブック。教材研究や、教科書のTMの執筆時に時々お借りして、その後自分でも買い求めた。3年前に処分したので、買い直し。結構使っていたと思うのだが、はしがきを読んだのは初めてというていたらく。Smith氏が成蹊大で教鞭をとっていたというのは今になって知った。

・J. W. Gillie, S. Ingle & H. Mumford, 1997. Read to write: an integrated course for nonnative speakers of English, McGraw-Hill

  • こちらも買い直し。xii-xiii での読解と作文のスキル一覧表が有益 (だったような記憶があったので)。これは、日本のアマゾンで頼んだ洋書だったのだが、この到着が遅かった。当初の予定だった1ヵ月経っても全くダメで、そこからさらに1ヵ月以上遅れて到着。

相変わらず雑多な品揃えだが、今回の目玉は、
・D. M. Parker, 2005. Ogden Nash: The Life and Work of America’s laureate of Light Verse, Ivan R. Dee

  • こちらは米アマゾンの中古で買ったのだが、コンディション良好。2週間経たないくらいで届いた。Billy Collinsも推薦文を寄せている。書肆山田から出ていた『世界のライトヴァース』を度重なる引っ越しで紛失してから心に空いていた穴がこれで埋まりそう。これは大事に読もうと思います。


『…「話せる」のメカニズム』も今日から読み始めてほぼ読了。なかなか面白かった。著者の羽藤氏の生年などは著者略歴に記されていないのだが、私よりは上の世代であるようだ。

  • 読者の皆さんの年齢層は、かなり幅広くなっているのではないかと思います。その中で、1970年代頃までの中学校や高等学校で英語を習われた皆さんは、英語を学ぶことが英文を日本語に翻訳することと同一視され、単語や文法があたかも翻訳の道具のように教えられていたのを、直接的な体験を通して、ご存じのことと思います。/ 実は私もその中の一人で、1960年代後半から1970年代前半にかけて、ごく一般的な公立の中学校と高等学校で英語教育を受けました。当時、私にとっての英語学習とは、教科書に載っている英文の一つひとつを語彙や文法の面から分析し、あたかも暗号を解読するかのように、それぞれの文の日本語訳を作り上げていくことでした。(p. 81)

この部分を読んで、少し残念な気持ちになった。
過去ログ (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080603 ) でも戦前の英語教育の一場面を書いたのだが、いつの時代でも、きちんと英語を教えている人はいたわけで、ルサンチマンのためなのか、一般化しておかないと議論が進まないからなのか、何にでも同じラベルを貼るのはいい加減止めたらどうかと思う。私自身は、英語をしっかりと学び始めたと記憶している中学校の3年生の時が1978年の冬、高校卒業が1982年である。この著者より、少し後の世代に属するだろう。しかしながら、中学校3年生の時の英語の先生は、授業の最初に英語でスモールトークをしていたのを、今でも覚えている。中3の冬までは、何を言っているか私にはわからなかったのだが、それでもクラスの数名は、ちゃんとやりとり (今でいう、インタラクション?) をしていた (この時代の話しは、先日語研の冬期講習会でも話したのだが、過去ログでも、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050307 から数日間の連続したエントリーで学習者としての振り返りとして書いているので、参照されたし)。
オーラルコミュニケーションとか、4技能統合とかが声高に求められる以前の、70年代後半でも、80年代前半でも、公立の中高でオーラルのスキルを鍛えられていた英語学習者は実際に存在するのです。自分はオーラルをやってこなかった、だから過去の日本の英語教育はけしからん、などという狭い了見ではなく、自分の周りにはなかったけれども、あるところには実はあったのだからこそ、「なぜそのような良い取り組みが普及定着しなかったのか」、「その良い実践の限界はどこにあったのか」という問題設定にして初めて、「今ここにある課題」を議論する材料となるのだと思う。
これは世間の学校英語教育批判に限らないのだが、自分の直接体験や自分の身の回りで起こったことを一般化するのではなく、たとえ希有な例であったとしても、福島プランとか、湘南プランなどの日本での英語教育の取り組みの成功例から「何が、どうしてうまくいったのか?」を謙虚に学び、それを踏まえた上で、新しい考えを説き、その先へ進むべきだと強く感じる。
最近、浮かばれないのが「明示的指導の結果得られることを期待される宣言的知識」。とにかく旗色が悪いですよね。何かにつけ、「宣言的知識は実際の運用で活かせない」などと言われる。私も含め、俗に「教育困難校」と呼ばれる学校で教鞭をとっている方から見れば、

  • その宣言的知識でさえ身に付いていないのだから、「手続き的知識」といわれたって…。

と愚痴のひとつでもいいたくなろうというもの。
この本の著者も、pp. 118-119で指摘しているように、

  • 「学習した文法知識」は「使える文法知識」の習得を促す

のは経験則としてほとんど全ての教師が感じていることである。
「習得順序は一定」「発達順序も一定」というのはSLA的に、何かすごくかっこいい気がするのだが、教室での学びを鑑みるに、

  • 発達よりも習得よりもまず先に、処理をしないと…。

という個々の学習者の現実がある、という足場からスタートしてくれる学者は非常に少ないのが残念。
とはいえ、この本は、先行研究を極めてコンパクトにまとめると共に、非常にわかりやすい言葉で記述されているので、一読を勧めるものです。accuracyとfluencyに関する現場での誤解など、極めて妥当な扱いで頷くこと多し。
が、しかし、これだけのことをかける著者だからこそ、やはりここからさらに一歩進んで「噛んで砕いて」自前の考察にまで落とし込んで欲しかったと思うのである。

  • noticing a hole
  • noticing a gap
  • stretching the interlanguage

という概念の説明に、pp.164-177までを費やしていますが、海外の学者からの借りものの言葉ではなく、「というのはどういうことなのですか?」と学生に訊かれた時に即答できるような記述が欲しいのである。(語研の講習会の私の講座では、その部分をテーマとして伝えました。)
Focus on Form は抽象度の高い “form” という無冠詞単数形名詞を用いて、個々の具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の、 “forms” との差異化を図った用語なのだろうと理解している。しかしながら、そこでの「気づき」や「フィードバックの結果成功したアウトプット」の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり、適切な動詞の運用だったりと、結局 “a form” の話しに戻っているのではないか、という疑念がなかなか払拭できないのである。

最後は、この本を離れ、この著者に限らず、今風の「気づき」を重要だという英語教育学者の方々へのお願いです。

  • 教室に30人、40人いる生徒一人一人の発達段階の差に応じた「気づき」を、インタラクションをさせる中で教師がしっかりと観察し、手当てができるように設計・準備されたタスクが満載の教材と1年間、たとえば、3単位で50分授業、年間90コマ程度のシラバスの実例、ひいてはそのようなシラバスを3年間経た学習者が身に着けられる英語力 (4技能個々、あるいは技能連関で) の具体的な記述を誰か見せて下さい。

私の高校時代のバスケットボールの師匠K先生にかつてこういわれたことがあります。

  • パス、ドリブル、シュート、リバウンド、フットワークなんかがいくらうまくても、その足し算がバスケットじゃない。使える選手っていうのは、バスケットボールってものが分かっている選手だ。フォーメーションでも何でも、一つひとつのプレーがうまく出来るかじゃなくて、バスケットができるかどうかなんだ。

私がバスケットボールで一流になれなかったのは今から振り返ればよく分かるのです。それでも、高1で入部した時点で、わら半紙で何十枚にも及ぶ手書きのプリントが配られ、試合前どころか日々の練習でさえ、そこで示される原理原則、そして個々のプレーやナンバープレーを頭に入れておくことは当然と考えられていました。そういった、個々のスキルがそれなりにできるのは当たり前で、トータルパッケージとして、ゲームを作れるか、様々な相手に対して臨機応変、当意即妙なパフォーマンスができるか、ファンダメンタルを踏まえた上でのクリエイティビティということが問われていたのだと思います。
その反省があればこそ、今、本業でコーチをする際の目や腕を磨くことが可能だったのだとさえ思います。翻って、正業での肝である、

  • 英語が出来るということはいったいどういうことなのか?

無駄が多くとも、出口が見えなくとも、やはり私は、自前の考察で藻掻き、教室で生徒と共に足掻くことからしか始められないように思います。

そうそう、もう一冊自宅に届いていた買い戻し書籍がありました。

  • 高橋泰邦 『日本語をみがく翻訳術』 (バベル・プレス、1982年)

これは私が高校生の時に定期購読していた『翻訳の世界』から書籍化されたもの。
私自身が高3の終わり頃、受験真っ只中の1982年の冬。発売直後のこの本で、日本語訳・和訳・翻訳というものを自分なりに研鑽していたのを覚えている。とかく、批判の対象になる「和訳」「訳読」だが、きちんとした方法論でトレーニングした経験のある人は、謙虚にこそなれ、その有効性に対して完全否定はしないことだろう。私は、新任の教員として着任してすぐに、教える立場から、この「いろはかるた」の高校生版を自分で作って印刷し、生徒に配布していました。書棚のファイルには変色したそのプリント集が今も残っています。

本日のBGM: 冬のサナトリウム (元ちとせ)