「東京から少し離れたところに住み始めて」

キーボードのLのキーが壊れていて、高2「今月の歌」のコメント集作成に手間取る。結局、明け方まで。なんか、昔のワープロ機種でローマ字入力を覚え立ての頃を思い出した。
高3ライティングは、英語俳句作品提出とそれに伴う80字の和文コメント提出。さらには、ノミネートされたことを想定して喜びと苦悩とを綴るように指示。残りの時間で、things Japaneseクイズの完成英文の暗誦練習。英文は他社本のものを加工したものがほとんどなので、高校レベルを大きく逸脱するということはないだろう。ペアでの音読のやり方はこの後に示す高2と同じ。今年の高3は去年高2の時に全く教えていない生徒なので、こういうところも自然な練習のバリエーションとするまでが大変。今年教えていない2クラスは、担当のK先生によると、音読は非常に自然だとのこと。元々英語力はある生徒たちだが、昨年鍛えた成果とも言えるだろう。早口でまくし立てる生徒がいないのが教室らしくて好ましいと思っている。
高2は9月の歌。Lazy Eyeの歌詞の読み合わせから。2分間でまずは口慣らし。その後、口パクでCDに合わせながら音・リズムの確認。ここで一回歌わせる。その後、ペアで背中合わせになり、1行ごとに読み合わせて、最後まで行ったら、最初の行を読む人を交代で、2セット。回数を重ねるごとに、課題がはっきりする。その後、一人が、歌詞カードをパートナーに向けて、顎の下の位置で保持、パートナーは一行または一文ずつ歌詞を見て音読、カードを持っている方は音を聞いてリピート。最後まで行ったらチェンジ。2ペア。歌詞が口に馴染み、はっきり確認できたところで、コメント集配布。TaskはペアでのQ&A。

  • This song is written from the point of a lazy eye. What does it mean to have a lazy eye? How did the author come to have a lazy eye? Generally, people have a pair of eyes, then, what does the other eye do? Match up a pair and ask these questions.

というもの。この質問の答えが英語でうまく言えるように、各自でコメント集からuseful expressionsを抜き出し、口慣らし。この間、若干ボリュームを落としてrepeatで曲を流す。コメント集には、今年の生徒だけでなく、昨年度の生徒のコメントも抜粋し、カスタマーレビューでのファンの解釈や、アーチストのインタビューからの抜粋も載せているので、読み込めばかならずTaskが出来るようになっている。私は時間を計ってペアワークをやらせるのが仕事。時々机間巡視して英語の音をチェックして、声をかけるだけ。1分半3ラウンドが終われば、いったん机に戻り、作戦タイム。言いたかったけれどうまく言えなかった表現でさらにコメント集を読み込まなければならないもの、パートナーの発言のなかに非常にうまい言い回しがあったもの、などコメント集の最後のボックスに「自分でも使えた英語表現」「自分でも使いたい英語表現」を記入して、対話が長続きするように準備。その後、新たなペアで2分以上コメントの応酬が続くかチャレンジ。合計、6人くらいとペアワークを行う計算。今回は「確信の度合い」を表す、動詞・助動詞的表現の頭出しチャンクをリストとして、積極的活用をねらった。その後、全員でもう一度歌う。
これが、私の授業で「英語の歌」を扱う時の基本形です。次の時間は歌になりそうだ、というときに休んじゃう生徒とか、乗り気じゃない生徒がいることは常に想定しながらも、「好き嫌いプラスα」で感想・コメントを述べる力はつけておきたいと思って続けている。映画や小説だと見たり読んだりするだけで相当な時間がかかるが、大衆向きの楽曲は2分から5分くらいなので、授業の中でなんとか処理できるという事情があって成立している授業。そうはいっても授業の比率からいえば、1/4から1/3くらいになるのでしょうが…。
さて、授業で扱ったテーマ、トピックに関して、英語で自分の意見や感想を述べさせる・書かせる実践は高校段階でも広く行われているだろうが、そのほとんどが、「説明文」「論説文」などノンフィクションの題材に依拠している。生徒は(教師も?)「小説・物語」「戯曲」「詩」などを語るための英語表現があまりにも貧弱なためか、必然的にこのような発展的とされる活動がなかなか成立しない。英語の授業は英語「だけ」で進めるなどというお題目を金科玉条のごとく信望する教師の授業では、感想を日本語で述べることは罪悪視されるため、どんどんフィクションが授業から消えていく。それでいいのか?英語力ってそんなものなのか?
「表現ノート」の話を自分でブログに書いておいてこういうのもどうかとは思うが、明日になれば忘れてしまうような、新聞記事の焼き直しのような文章、誰が書いたのかも分からない顔の見えない文章の寄せ集めとなった教科書をもとに、音読を繰り返したり、パラフレーズしたり、要約したりするなどの「最後に英語が残る」活動をするのは、考えようによってはもの凄く無駄な作業なのではないのか、という内省も必要だろう。そんな作業の延長で大学生や社会人がTOEICやTOEFLのスコアアップに躍起になっているのは望ましい状況なのか訝しく思う。
良質のフィクションだからこそ、長い文章の中でも、短い詩の中でも、きらりと光る一言、一節、一文が心に響き、自分の言葉と重なり、自分のものとなる。外国語でのその一言が豊かな自分の言葉となって醸成されていく。そういうことだってあるだろうに。
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本日のBGM: 『Edo River』 (カーネーション 1994年)