一般化の危険性

ある高名な大学教授の原稿の中に、非常に気になる物言いがあった。

知識には丸暗記できるタイプの知識(宣言的知識)と身につけるタイプの知識(手続的知識)とがあります。講義形式の授業で教えられるのは丸暗記タイプの知識です。このタイプの知識だけいくら増やしても、身につけるタイプの知識は身につきません。例えば、車の運転の仕方と交通規則の講義を受けてペーパーテストに受かっても、車の運転免許はもらえませんね。ペーパーテストに受かるための知識と実際に車が運転できるかどうかは別の種類の「知識」なのです。外国語の学習も同様で、講義で習ったことを完全に丸暗記しても、使える知識としては身につかないのです。

宣言的知識=丸暗記できるタイプ= 自動車運転免の学科試験
手続き的知識 =身につけるタイプ=自動車運転免許の実地試験

という比喩に無理があるのだろうと思う。第二言語習得の専門家が、一般の人にもわかるようにと、たとえを用いることでかえって本質からはずれてしまう好例だろう。

まず、『手続き的知識』というからには、なんの手続きなのかが問題であろう。
作動記憶を通じて、宣言的知識として蓄えられた『こつ』のプールの中から、次に同じコミュニケーションのスキルを行う場合に、相応しい宣言的知識が作動記憶に呼び起こされ,そのスキルを行うための手順=手続きが、生産的記憶に蓄えられる。宣言的知識を繰り返しより早くそのスキルを行うことができる段階を経て、手続き的知識が確立されスキルは自動化される。というACT*modelにのっとって考えるなら、宣言的知識が『きちんと蓄えられていれば』手続きがスムーズに行く可能性が高まる、と考えるのが自然なのではないだろうか?近年、認知言語学やSLAの台頭で,L1もL2の言語習得の順序は決まっているので、明示的な指導で習得を強要しても無駄、という流れができつつある。果たして、そのままナイーブに習得を待っていていいのだろうか?noticingは確かに重要だが、いちいちコミュニケーションのセッティングをお膳立てしてもらわなくても『気がつく』ことは可能である。明示的指導に否定的な人は『辞書』の例を想起してみてはどうだろうか?

辞書に記述してある知識は身につけられるタイプの知識ではないから、記述を明示的にしてはならない、と誰が考えるだろうか?手続き的知識の獲得の重要性と、宣言的知識の整理とは何ら矛盾しない概念であろう。