Survivors

tmrowing2013-10-04

文化祭初日。
主張コンクールと合唱コンクールというステージ部門です。
コースが異なればクラスの男子女子の比率もまちまちなので、混成何部合唱などと上手くできるクラスばかりではありません。まさに、「それぞれ・それなり」です。いいじゃないですか、一所懸命なら。
今年は新鮮な気持ちで文化祭を眺めています。
先日、合格報告に来てくれた卒業生とも話していたのだけれど、だいたいこの時期に本業で国体があるので、現任校の文化祭ってほとんどいないんですよ。担任していたときでも、前日も当日も不在。土日の振り替えで代休のあたりで帰山という感じ。

  • 「なんで、こいつは肝心なときにいつもいないんだ?!」って思ってたでしょ?

と訊いたら頷いていました。明日は展示やバザーが中心。天気がちょっと心配。

さて、ここ数日は学校が終わっても正業の実作。
某教材の改訂作業で知恵を絞っていたのでかなり脳が疲れていました。少し、見えてきたかな、という感じ。これでも英語を使っているんですよ。「英語を使う」っていうけれど、「使い方」は人それぞれです。教材作成者が英語としておかしなことを言ったり書いたりしてたら、そりゃ困った人ってことになるだろうけど、余所様が「どこで、いつ、どのように、どうして」英語を使うのか、なんて指図できませんから。

先月の連休中に読み比べていた「多読教材」は、

  • The Wizard of Oz

でした。
Oxford Bookworm では、Stage 1 (400 Headwords) で登場します。総語数は5440語とあります。この作品がBookwormのシリーズに入ったのは1998年とのこと。それ以前にも、「名作もの」のretold版は出ていましたが、Progressive Readersのシリーズでは1400 Headwordsでしたから、かなり易しい英語になっているわけです。私の場合、関心があるのは、「読み比べ」ですから、

  • 読んだら、読み返す、倍返しだ!

という具合に、同じ物語を、複数の異なる出版社、異なるレベル、バージョンで比較対照しながら読んでいます。
Usborne Young Reading では、Series 2 ですから、ちょっと語彙が難しめ。CDが付いているので、再読でリズムに乗るには適しています。でも、物語としてはちょっと端折り過ぎの印象。
英米の子供向けの「絵本」の類もいくつか読みましたが、「物語のあらすじ」程度が書かれているだけで、絵がなければ「つながり」や「まとまり」を感じにくいものも多いのです。次の段階は、

  • 易しければ優しいか?

という問題にぶつかるわけです。
国産の『名作retoldもの』では、英協の「英検3,4級レベル」が、かなりの量を割いて物語性を保証してくれています。でも、フォントも挿絵も古めかしく、初学者にはちょっと荷が重いように感じます。
評論社からは、「原文を活かした対訳もの」で出ていましたが、これは壮大な物語の途中で終わっていて、

  • ドロシーがカンサスに帰るのはいつ?

という疑問が残る問題作になってしまっています。
良質のライターの不在または欠如、良質の物語の「数とバラエティー」が少ない、という旧来の日本の「副読本」にまつわる問題点を浮き彫りにしています。

酒井邦秀・神田みなみ 『教室で読む英語100万語 多読授業のすすめ』(大修館書店、2005年)
では、次のような旧来の日本の「副読本」を用いた多読指導を批判しています。まずは、読み方。

けれどもこれまでにも「多読」と呼ばれる指導法はあったので、多少誤解があるようです。従来の多読は精読を速くしたもので、和訳や100%の理解を求める点は精読と変わりません。 (はじめに)

また、次のように「読む量とレベル」にも言及しています。

従来の多読は1学期間あるいは夏休みや冬休みの間に1冊か2冊の副読本を読むことを意味していました。(中略) この場合、1年間に読む英文の量は多くても2, 3万語程度だと思われます。
また、これまでの「多読」では、教室で読むものよりも一段階下のレベルを読ませることが多いようです。(p.5)

私自身、古い時代の英語教育制度で育ってはいますが、自分の英語学習には自分で責任を持って行ってきましたから、一度足りとも、「自分の英語力のお粗末さを誰かのせい」にしたことはありません。
私の教師としての疑問は、「なぜ、そんなに簡単に『従来の多読』と十把一絡げに言い切れるのか?」というものです。「多読」で必要不可欠な良質の「物語」がこれだけ豊かになった背景的要因として、日本での「多読」の普及・浸透があり、それを牽引してきたのが、酒井氏らが提唱する、いわゆる「SSS多読」であることは間違いないでしょう。
酒井氏とともに、「多読」の普及に尽力された、古川昭夫氏はその著書、 『英語多読法』(小学館新書、2010年)で、次のように述べています。

「多読は効果がある!」と確信したものの、まったく新しい学習法なので、多読を実践するためのインフラが整っていません。多読をするために必要な本の入手法や多読の進め方などの情報を受信・発信する受け皿が必要だったのです。そして、「多読が普及する→やさしい洋書が売れる→やさしい洋書が増える→多読が普及する」のサイクルを作ることを考えました。 (p.9)

このサイクルには本当に感謝しています。ただ、SSS多読「以外の」、また、それ「以前の」、読みの方法論を否定することには違和感を覚えるわけです。「インフラが整っていない」時代にも、本質を見ている人はたくさんいたはずです。
古い時代の英語教育を生きた先達の「多読」観は過日、このブログでも紹介しました。今日は、一つ追加しておきたいと思います。
「簡易化テキストなど」という項目で書かれたものです。

むずかしいテキストの文章を、五百語、千語、三千語というような一定の範囲の語で書きかえることをテキストの簡易化といっている。そのようにしてできたテキストを簡易化テキスト(Simplified text) と呼んでいる。
語句をある範囲に限って簡易化したテキストは、いろいろな学習段階の学習者に適当な読み物を与えるという目的がある。速読や多読の教材として役立つと思う。かつてパーマーや、ホーンビーなどが、日本の英語教育のために簡易化テキストを作った。スティーブンソンの『ジキルとハイド』、『宝島』や、ポーの『黄金虫』などであった。
語彙選定が合理的に、有効にできてくると、制限語彙の中で教育的な読み物が書かれてきた。あるいは、名作などの書きかえが出てきた。クラレンス・デイ(Life with Father) 、O. ヘンリ (O. Henry’s American Scenes)、A. R. レイニア (Visiting the U.S.A)、オルコット (Little Women) などが広く読まれているようだ。ラダー・エディション(Ladder Edition) など、多読の教材に用いられている。教科書にも引用されたりしている。(中略)
ホーンビーは、かつてOxford Progressive English for Adult Learners 三巻を出した。”Oxford Living Names Series” や Dixsonの諸作が輸入された。
最近はオックスフォード出版のL. A. HillのStep to Understanding (四巻)、 Stories for Reproduction (六巻) などが、入門・初級・中級・上級などの段階分けをしたものを始め、同様なものに、ロングマン社、マクミラン社などの各社が、外国語としての英語教材の開発に力を入れている。洋書という価格の問題はある。引用したり、プリントなど複製活用する場合には、著作権という注意は心得ておかねばならない。

これは、鈴木忠夫 『英語教育 素人と玄人』(清水書院、1983年)からの引用です (pp.45-46)。当時の英語教育、そしてその歴史的背景をよく知る者の証言としても読めるでしょう
鈴木は、こう続けています。ちょっと長いですが引用にお付き合い下さい。

簡易化テキストについて、それでは原典のもつ表現の味と香りが損なわれてしまい、せっかくの文章の美しさが失われる、という意見がある。そのことは、たしかなことだろう。英語に熟達し、研究も積み、文学の奥義を心得た玄人としては当然であろう。しかし外国語としての英語の学習としてならば、そうばかりも言っておれない。まだその表現の味も香りもわからないし、英文の感覚も身についていないものには、言語美学ばかりを言っておれない。簡易化テキストや、語彙宣言の書きかえ物でもよいから、多くの英文に接し親しませ、その英語への慣れを通して、英文の仕組みや表現を、次第に身につけさせることが必要であろう。難物の味読は後のことで、まだ中学、高校の段階ではそこまでになっていない。平易なものをより多くの分量、言うなれば何キロ読んだという目方読みということも考えられるべきだろう。平易なもの、力に応じたものを、口と耳と目で読むことは多いほどよいのではあるまいか。短い段節の精読を必ずしも否定するわけではないが、平易に読めて、小さいながらもまとまったものを読めば、あるいは思考の脈絡のちがいにも接し、習慣のちがいからくる人情の共通とちがいを知ったりして、教養を深め文化の理解にもつながろう。(中略) 中学校、高等学校の英語教育は、玄人のいう英文学などの研究の段階には至っていないことは言うまでもない。素人(しろうと)を並人(なみびと)に引き上げて、将来いずれの分野にも進みうる土台作りであろう。現代語のもつ役割りを身につけさせる基礎でもあろう。英語学、英文学を専門とする玄人の方々には、ゆとりある理解を願いたい。英語教育に関係しない方々にも、あれこれの評論だけでなく、手を述べて、この教える、学ぶというビズネスを育ててもらいたいと思う。 (pp. 47-48)

再度言っておきますが、これは1983年の鈴木氏の述懐です。大正3年(1914年)生まれの鈴木氏の言葉を、昭和39年(1964年)生まれの私は時々読み返しています。読み返すに足る、語り継ぐに足ることばがそこにあるからです。

晩酌には、7月28日の豪雨での甚大な被害から立ち直った、地元の地酒をいただきました。深謝。

本日のBGM: Words of Love 〜ふたりの愛言葉〜 (原めぐみ)