「物語」の喪失

職場の忘年会から一夜明け、ひねもす作問と採点と。
忘年会は湯田温泉のホテルだったが、昨年使用したところよりも料理が美味しかった。幹事さんご苦労様でした。好例のビンゴ大会では、トリプルリーチをかけ、一番でビンゴ。景品は欲をかかずに、中くらいの大きさのものを選んだのだが、ちょっと中途半端だったか。まあ、ここで運を使い果たさなかったということで。
作問の合間に、教材研究というか自分の勉強。

  • 木原研三『呼應・話法』 (研究社、1955年)

古いというなかれ、このレベルで書いてあるものが他に余り無いのだから仕方がない。作問の見直しにもなるのだから一石二鳥。
採点は、高2の「ライティング」。

  • If you could change three things about yourself, what would they be?

まだまだですな。いや、私の指導が、ということ。
今年の夏にELECの協議会での夏期研修会でもお話ししたことだが、私は「ライティング」の評価で、観点別・分析的評価ということをほとんど行わない。専ら「全体的・印象評価」である。

  • 英語としては稚拙だけれども、難しい語彙とか、構文によくトライしていたから加点。

とか、

  • ミスは見られたけれど、内容が優れているから加点。

などということはしない。
ミスが多ければ読みにくいし、読めなければ内容は伝わらない。いくらパラグラフの体裁が整っていようとも、英語になっていなければそれは「英語のライティング」ではないのだから。
私は、今「ほとんど」と書いたのだが、後出しじゃんけんで自分のgradingの吟味はする。なぜ、自分はその評価だと思ったのか、何が印象を上げ、何が印象を下げたのか、まず全体のパフォーマンスを見てから、自分の評価を下し、その「自分の評価を分析している」、といえば正確だろうか。高い技術がなければよりよい表現はできないし、よりよく表現しようと思わなければ技術は伸びないのである。
GPファイナルも終了。
女子は長年のファンであるキム・ヨナが不参加、フィギュアー・スケート界の宝である浅田真央が出場権なしということで、日本選手では安藤選手の出来に期待していたのだが、SPでの得点が伸びず、フリーでの逆転はならなかった。男子は絶好調で臨んだはずの小塚選手がSPで伸びず、反面、SPでこれまでプルシェンコくらいでしかみたことのないくらい高い4回転のコンボで首位発信した織田選手がLPで2回の転倒。高橋選手はSPもステップで詰まってほぼ停止したり、LPでも明らかに身体がついてきていないように映った。練習不足とは思いたくないが。
男子も女子も、SPもLPも採点方式をどうにかしないと、採点に合わせた最も効果的なプログラムを組むといったって、結局「プログラムコンポーネントスコア」というブラックボックスに放り込まれた結果はどうすることもできない。このままでは、この競技に未来はないように思う。地上波では、相変わらず分かりやすい「人間ドラマ」を探したがっているようだが、そんな舞台裏は得点に対して何の影響力も持っていない。得点にしても、「表現力 vs. 高難度ジャンプ」などというライバル対決はもうどこにもないのだ。スパイラルが減り、代わりにスピンの比率が高まった。それだけなら技術点での配分の変更であり、多少の幅があろうと一流選手であれば、対処可能である。問題は、まず、ジャンプでのDGとGOEでの二重の加減点。そして、PCSという要素の細分化による点数の「爆上げ」である。
女子でいえば、シズニーとコストナーは今大会では、PCSで盛られる側の「女優」として認定されていたということだろう。

  • スケート技術に定評があって、スピンの精度が高く、音楽との調和があり、技と技のつなぎが滑らかな上に、表現者としての解釈に優れている。

という、高校の教師が生徒の「調査書」に書く所見のような紋切り型。しかし、今のフィギュアスケートは、ジャッジが点を与えているのは、このような「すでにできあがった物語」、まさに、個々の選手に対してすでに書き上げられた「プロトコル」に対してなのではないか。銀盤で個々のスケーターが紡ぎ出す「物語」はどこにいったのか?
ストロークが長ければスケーティング技術が高いのか?だったら、大昔のコンパルソリに戻せば良いではないか。男子優勝のチャン選手の演技は確かに素晴らしかった。しかし、PSCでの爆上げはいただけない。返す返すも小塚選手のランディングでの「詰まり」、織田選手の転倒など、日本選手のskating skillsの高さをアピールすることができなかったことが悔やまれる。
日本選手は男女ともことごとく、skating skills, transition / linking footworkで厳しい評価を受けてきたが、今回は、performance /execution, choreography / composition, interpretationで大きく差をつけられているように思う。interpretationなどは、同じ演技に対して、ジャッジ間で±2点の差が見られたりする。シズニーのchoreography に9.0をつけているジャッジがいる一方で、安藤のtransitionに5.75をつけているジャッジもいる。「いや、そこはジャッジの主観だから」というのであれば、TESのGOEでの「出来映え点」などというものは即刻廃止すべきだろう。スピンでは、レベルを上げて0.1しか得点が上がらないのに、GOEによって平気で1.0などの加点がつくのである。ますます、「平凡な難易度の演技を非凡に美しく演じる」競技会になってしまっている。明らかに、五輪でいえば一大会前の水準、いや全体の水準はそれ以下かもしれない。荒川静香がトリノで見せた演技で充分優勝だったのではないかと思うくらいだ。
TESでの「ジャンプには基礎点を与える」という曖昧さと、PCSでの「盛り盛り」の恣意性とで、順位に対する興味はいよいよ失せた。今はただ、美しく、流れるように滑り、舞い、跳ぶ、こちらが居住まいを正すような演技を見たいと思うだけだ。これで、もしキム・ヨナが世界選手権に参戦ということになったとき、今シーズンまったく「物語」を共有できていないジャッジはどう判断するのだろうか?

昼間に読んだ内田樹 『武道的思考』 (筑摩書房) にこんな一節があった。

  • アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている幼児化の端的な兆候である。スポーツメディアが書くのは「数字」と「バックステージの人間ドラマ」だけである。アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数についてか、人間関係についてか、そのどちらかである。(p.183)

私も愛読していた山際淳司氏など日本のスポーツ・ノンフィクション作家が切り開いてきた地平によって得られた「見晴らし」に感動を覚えたのは事実。しかし、その一方で、「スポーツそのもの」「競技そのもの」をまっとうに実況したり、素人にも分かりやすく解説したりする「言語化のスキル」「表現技術」を磨くことを怠ったツケが現れているように思う。その「表現技術」までアスリートやコーチに求めるのは酷だろう。
懐かしの映像を見て、就寝。

本日のBGM: (You make me feel like) a natural woman / Superfly

追記: 前日練習で高橋選手と小塚選手がぶつかったということは聞いていたが、映像を先ほど見て驚いた。高橋選手のダメージが深刻でないことを祈る。全日本をスキップして世界選手権まで休養し、万全の体調で臨めるような「戦略」を描ける人物がまわりに多いことを願うばかり。