多読雑感。
- 難しい英文を逐語訳や後戻りしながら結局少ししか読み進められないより、易しい英語をたくさん読み続ける方がはるかに重要だ。
という人がいる。どうして物事を必要以上に単純化したがるのか、疑問に思うことが多い。
- 易しい英文を少量→易しい英文を多量→難しい英文を少量→難しい英文を多量
と順番に進むことが唯一絶対の方法ではないだろうに。
難しい英文がゆっくりと読める段階にいるからこそ、それよりも易しい英文が大量に読める、とはなぜ考えないのだろうか。
「やさたく」で英語力が伸びた、というときの「英語力」の定義を吟味していると思えない議論が巷で飛び交っている。
・日常的な話題を英語で言おうとした時に、以前よりもスムーズに英語が出てくるようになった。
・ 日常的な話題の聞き取りが、以前よりもはっきりとわかるようになった。
・ 易しい英文を読むときに、戻り読みをしなくなった。
・ 易しい英文を読むときに、逐語訳をしなくなった。
あたりは、「やさたく」の効用で納得のいくものである。では、次のようなものはどうだろうか?
・ 以前は読めなかった、京大の英文和訳で問われた英文を後戻りせずに内容理解ができるようになった。
・ 以前はできなかった、京大の和文英訳で問われた日本文を読んだだけで、その内容がスラスラと英語が出てくるようになった。
そんな例を持ち出してどうする?と思う人がほとんどだろう。私もそう思う。
では、「やさたく」を続けていたら、いつ難しいことができるようになるのか?
レベル1を10万語読んだら、レベル2へ進みましょう、というときに、その1段階上の英語を読めるために必要な下位技能は何か?
歩けるようになったら徐々にスピードを上げていきましょう、走る距離を伸ばしましょう、というような「歩から走へ」という比喩が「読むこと」にどの程度当てはまるのか?
突き抜けた議論をするために、自分の立っている場所を疑ったり、ありきたりの喩えを排除したりしておく必要があるだろう。
どこかで読んでいたはずで、どこで読んだのか思い出せなかったのだが、ここでした。
- 毎日、文章を書いて暮らしを立てているわけですが、なにか、泥沼のなかで殴り合いをしているという感じです。紋切型の言葉と格闘してしばしば負け、あるときには組み伏せることができ、あるときには逃げる、といったように、紋切型との殴り合いに終始している。その問題をおたがいに自分の前に置いてみましょう。その問題を前に置かなければ、文章はなかなかうまくならないと思う。(「紋切型の言葉について」、鶴見俊輔『文章心得帖』 (潮出版社、1980年)、pp.16-17)
高校生の時に出会っていたのだった。意味ではなく、言葉をもっとちゃんと読んでおくんだった。鶴見氏が十二歳から続けている「書き抜き帖」のようなものを、私もずっと作りたかったのですね。私の泥沼はかなり深くて大きいようだけれども。
「紋切型」に関して、鶴見はこうも言っている。
- 人間がそれにつかざるをえない最後の紋切型までいけば、逆転できるのですよ。
逆転負けにならないように精進精進。
本業の練習は大学チームが部内レース、コース内のブイ張りということで、上の奥の水域まで移動して指導。カタマランがようやく使えるようになり、伴操。初心者2Xは分漕で合計90分。一人あたりだと45分にしかならないが、まあこんなもんでしょう。県予選に向けた1Xは、2Xの一人漕ぎで、フィニッシュからリリースの改善。約2時間。「いるかさんご一緒に…」がまだ本当にはわかっていない模様。シートスライド10cmだけつけて10 by 10。リカバリーでのこの10cmが、リリース後艇がトップスピードに乗るフェイズである。しかも、ドライブで腕に頼らずぶら下がり続けないと加速もできない。
ハンズがもたつくと、ボディーもシートも一緒に動き出してしまうし、ピボットから艇に乗れないと前スペースが伸び縮みしてしまうので、このドリルで求めるものが、私が要求する技術のほぼ8割を占めるように思う。徐々に身体で覚えて、考えなくてもできるようにしていきましょう。
前回、艇を不用意にぶつけてランニングのみを課されたはずなのに、懲りずに岸から水面へと垂れ茂る木陰に突っ込む。穴は空かなかったものの、ハルの一部が破損して含水していたので、ブイ張りでまともにコースが使えないことを鑑み、午後練を切り上げて帰ってきた。生徒を学校で降ろし、駅向こうのホームセンターまで戻って応急処置で用いる防水テープを購入し帰宅。明日一日はこれで凌いで、その後、補修作業だなこれは。糊はがしスプレーを買い忘れたけれど、今度にしよう。
エントリーの技術を説明する際に、
- このブレードまでがあなたの手。お風呂やプールに手を入れたら、手首まで水に入っているか、斜めに入っているかすぐわかるでしょ。たとえ見てなくても。ブレードも同じ。この道具はあなたの身体の一部、この先までがあなたなの。
と言ったのだが、初心者も含め、生徒には「用具・道具を大切に扱うこと」の本当の意味を教えなければ。
さて、
英語学習・教育関係のブログなどを見ていて気になる用語に「ディクテーション」というものがある。カタカナ化しているので、既に日本語で独自の意味を育んでいるのだ、と言われればそれまでなのだが、英語教師が用いる場合には、やはりもとになる動詞 dictateの定義を確認しておいて欲しいと思う。OEDから dictateを引く。
- say or read aloud (words to be typed, written down, or recorded on tape)
dictationはここから生まれた名詞だから、本来は、
- the action of dictating words to be typed, written down, or recorded on tape
という教師などの「行為」であって、
- the activity of taking down a passage that is dictated by a teacher as a test of spelling, writing, or language skills
という「生徒の活動」は、二義的ということばでは誤解を招きやすいとすれば、副次的な用法と見るのが筋だろう。
申し訳ないが、初学者用を謳う辞書LDOCEの定義 (現行のWeb版のもの) は英語としても難あり。改善を望む。
COBUILDでは、
- Dictation is the speaking or reading aloud of words for someone else to write down.
MEDでは、もう少し詳しく、
- the act of saying something that someone else then writes or types for you, for example a letter
をあげてから、その下位項目で、
- the activity in which a teacher reads something to students that they write down in order to see how well they understand and write a language
を示している。
OALDは簡潔。
- 1 the act of speaking or reading so that sb can write down the words
- 2 a test in which students write down what is being read to them, especially in language lessons
ISEDで興味深いのが、2番目の定義で、
- that which is dictated: the words, etc. written down.
とあり、用例として、
- How many spelling mistakes are there in your dictation?
- Hand in your dictations, please.
があげられている。「行為の結果」としての「もの」にも用いる例である。
気になる部分がおわかりだろうか。授業やテストなどで生徒が書き取りをする「活動」にdictationをあてるのは語義にかなっているのだが、書き取る「行為」のことをdictationというのは違和感がある、ということである。
今日の私の「書き抜き帳」に残されることば。
- 疑いを疑うもまた信なりで、何度も何度も疑っていくと、不器用になる。だから、リズムにたやすく身をまかせない、リズムを破り、破調にとどまる。それが必要な場合もある。(鶴見俊輔「暮らしと見合う文章」、『文章心得帖』、p.193)
本日のBGM: Make believe (Jules Shear)