現任校の一期入試が終了。
入試と言うことで、ここでは多くは書けないが、監督と採点を終えての雑感。
- 英語は難しい。
でも、自分たちで作っておいて不遜に聞こえるかもしれないが、発音とアクセントの出題の解答を見て、先日の大学入試センター試験の “format” を問う発音問題よりは真っ当な出題だな、とは思った。この語を動詞で用いた場合の過去形・過去分詞は、formatted と綴ることから、二音節目は曖昧母音とならないことも推測できるかもしれない。
第一強勢の置かれない音節の母音が全て曖昧母音になるわけではないことは、恩師、竹林滋氏が2音節語のアクセントの四型を示す際にいつも例に出していた次の4語でしっかりと覚えている。
- comment, female, profile, window
これらの語はとりあえずは基本語とみなすことが可能だと思う。学生当時は、
- この4語以外にもあるんだよな、きっと。
という程度の理解で過ごしていたのだが、教師になって指導をする立場に立って初めて、この強勢の型というものの難しさを感じてきた。
今回のセンター試験の出題で問われた「第一強勢を得ないけれども、曖昧母音にならない母音 (発音表記の際の記号の名前で言えば ash)」そのものに関しては、
- combat, contact, contrast, kidnap, program などの接頭辞や複合語で類推の利く語
- maniac, zodiac など本来は形容詞語尾の一部の語
を見れば確かに納得できる。しかし、だからといって、たとえば外来語のanorak を高校生の発音を試すために出題しようとは思わないのではないだろうか。
語源というものは諸説あり断言は難しいことを承知で書いてみるのだが、format という語の初出は19世紀以降でフランス語 (ドイツ語) から入ってきたものと思われる。
- 『岩波英和辞典・新訂版』 (1958年、p. 351)
では、見出し語そのものが斜字体となっていて、外来語・借入語であることを示してあり、
- (F) (書籍の) 型、判 (はん)
という訳語のみをあげ、発音記号には仏音を併記してある。
このashの類例には、3音節の名詞ではあるが、diplomat があげられるだろう。diplomatの場合は、フランス語のdiplomatiqueからの逆成と考えられているようだ。
個人的には、このような調べものは苦にならないどころか楽しいのだが、今回のセンター試験の出題を機に高校生が、上述の強勢の型に興味を持って英語を学んでくれるようになるとは全く思えない。知識が整理されているに越したことはないのは確かである、そうではあっても、整理しておく価値のある知識を問うのがテストであろうと思う。
唯一良かったのは、今回、調べものをしている中で久しぶりに、
- 竹林滋 『英語のフォニックス 綴り字と発音のルール』 (ジャパンタイムズ、1981年)
- 宮田幸一『発音・つづり・語形成』 (研究社、1969年)
を読み返し、懐かしさがこみ上げてきたことくらい。教材研究では、分かったつもりになって調べる手間を惜しむのがいけないということを駆け出しの頃教えてくれた先輩の同僚であるF先生に感謝。
授業は淡々と。
普通科2年は、3学期でようやく「文」の学び直し。語順 (動詞型) の徹底。
進学クラスの2年は個人課題に沿っての自学自習。最後の10分間を音読に当てた。
銀行まで選抜大会の参加費を振り込みに出かける。
職員会議が中止になったので少し早く帰宅して仮眠。
『英語教育』の2月号をあらためて読む。
書評で、Van Pattenらによる、
- Key Terms in Second Language Acquisition, Continuum
が適切に扱われていて我が意を得る。
Forumで「略語としてのSAT」について書かれていた方がいたのだが、このSATは既に「略語」ではなくなっていたのではないか、と思い、
- 飛田茂雄『探求する英和辞典』 (草思社、1994年)
にあたる。pp. 256-257にエントリーがあり、私が知りたいことがこの辞典にまとめられていた、というより、この辞典でまとめられていた知識をただ自分で仕入れていたわけである。
少々長いが、秋山敏氏の言葉を引いて自戒。(『秋山敏---その人と言葉』 あぽろん社、1991年)
- 外国語を学ぶのに文法が大切だということは決してウソではない。だが文法とは何か。又どうしたら文法が会得できるのか。市販の安参考書に収録してある事柄位が文法ならば知れた話だ。あれを知っても英語がよく読めも書けもするものではない。語形の変化、語と語、文と文、段落と段落の連関などの一切を支配しているもの、それは一文法書などに規定されている事項位でカタのつくものではない。その代わり、難しいとは言っても言葉というものは、学者の考案に成るものでもなく平々凡々たる市井人の日常道具に過ぎないのだから、感覚さえ鋭くしておけば、そこに支配している語法なり思考の流れなりを感じ取ることは必ずしも困難ではない。人間はある共通法則に支配された定例に三つ以上接すれば、その法則を発見し感受できる筈だ。自分で発見したものは、よしんばドロ臭くとも、自分にとっては生きたものであり、感覚的に捉え得たものだ。ただ単に先人の発見した法則を記憶しただけでは、血も肉も出来はしない。われわれは血にも肉にもなり難いものに頼り過ぎはしないか。片カナの栄養剤や小ぎようにまとめた解説の類に権威を感じ過ぎはしないか。そもそも他から与えられる権威は一応不信の念を持って接するのが健全ではなかろうか。食物とは栄養とは、血肉とは、一体何物か。われわれはもっと旺盛な食欲で雑多なものをあさり、もっと困り、考え、あがき、くやしがって問題を抱き続けるのがよいのではあるまいか。覚えるとか忘れるとかいう如きことはあまり苦にするに及ばないのではないか。(p. 17、「英語教師三十年」)
とはいえ、ナンパオを飲んで早めの就寝。
本日のBGM: One man guy (Loudon Wainwright)