質問と批評の文化あるいはreflective language teaching再考

木曜日は、夕方からFTCへ。当日は現任校の歓送迎会もあったのだが、FTCは山口県宇部市から音読塾を主宰する藤本さんが来ると言うことでこちらを選択した。いつものFTCのメンバーとはちょっと違った顔ぶれが多かった。懇親会までお邪魔して、日付が変わるギリギリで帰宅。懇親会でも話題にしたのだが、今回の参加者の中に春のELEC同友会のワークショップと語研の春期講習会でも見かけた高校の先生がいらっしゃった。質問はするのだがその後、そのissueに関して残って聞き出そうというようなことをしないあたりは全く同じ行動様式。これはどんなものなのか。研究会に参加するくらいだから、そうでない先生よりも熱心でまじめではあるのだろうけれど、本当の意味で自分の内省につながったり、自分の授業の改善につながっているのだろうか?一昔前のキャッチコピーの「かわらなきゃも、かわらなきゃ」を思いだした。前回自分でFTCの発表をしたときは、主催者にお願いして、参加者でメールアドレスを知らせてくれている方それぞれにメールを出して、発表の評価をお願いした。返事が来たのは半分もないのだなぁ。良いにつけ悪いにつけ、評価やコメントを与える文化が育っていないということなのか?たとえ低い評価であってもそれを適切に伝えてあげることは少なくとも発表者にとっては重要な意味を持ちますので、私の発表を聞いた人はコメントをお寄せ下さい。お願いします。
高3ライティング授業は、自己紹介・自己PRシリーズの続き。水曜日とは違うクラスなので、市販教材を紹介。「コロケーション」の説明に『英単語ピーナツ』(南雲堂)を音源ごと紹介。日本語と英語の対応を基礎語彙のレベルで考えるとコロケーションは避けて通れないのだが、いまや英語教育界は「コーパス」一色ではないのか?黒川泰男氏の一連の著作のような日本語の基礎語彙を精緻に分析した論考をもっと取り上げてみる必要性があるのではないか?例えば、日本語での「〜する」というコロケーションで、以前気になったものに「充実する」というものがある。かつての『現代英語教育』の特集だったように記憶しているが『語彙指導を充実する』という他動詞的な使い方に違和感を感じた。当時の同僚にも同じ質問をしたのだが、期待するレスは得られなかった。編集部に問い合わせておくんだったなあ。と述懐すると、ほら、さっきの先生と同じ行動様式。訊くは一時の恥。「の充実を図る」「を充実させる」がデフォルトではないのかなあ? H.K.さんお願いします。
少し話が逸れたが、授業ではさらに「表現ノート」のネタ探しに使う雑誌類の紹介。FTCに行くついでにお茶の水の丸善で購入しておいたのだが、『週刊ST』『婦人画報インターナショナル』『ネイチャー・アジア版』『フィギュアスケートマガジン』などなど。まとめ買いして会計したので、合計金額にびっくり。レシートを見て、ネイチャーがあんまり高いのでさらにびっくりした。
自己PRの手紙を書くまでの一連のタスクでは、「言いたかったけど英語で言えなかった表現」に関するピア・レスポンスの第1回。「効果的なコメントを与えるのは難しい」「そんなこと聞かれてもわかんないよ」ということに気付けば、「では、どういう問いかけをしたら突破口が見えてくるか」と考え「自分なりに、こういうアプローチをしてみた」ということをまず打ち出す必要性が出てくる。とはいえ、今回は手法の導入のみ。習熟度に差があることが前提でも、テーマによって、triggerによって難易度は変わってくるので、ピアレスは焦ってはダメ。連休をはさんでしまうのだが、実際のライティングはtimed writingで直接見たいので、タスクは進めずに「表現ノート」の方を進めておくように指示。連休明けには「表現ノート」第1回事前相談会。
高2は Dan Forgelbergのleader of the bandの続き。歌詞の細かいところに関しては解説(日本語でですよ)、その後さらに聴かせて最後のタスクを記入させ回収。Vocabularyに関しては、disabled peopleの解説でクリストファー・リーブとスティーブン・ホーキングの写真を見せて、例文の意味を考えさせた。PCの観点で、dumbではなく、speech impairedというのだというような知識の前提として、dumbbellの意味を考えさせた。思い返すと、去年も同じ話をしたのだが、去年は3年生の授業で「亜鈴」の「亜」について説明したのだった。本来は聾唖の「唖」(本来の字がでない。口に「亞」だったはず。)今は「亜」だから「二番手の;似て非なる」みたいな意味でとらえられているということか。亜鉛の亜、とかインド亜大陸の亜という感覚。モモンガとムササビの英語での名称とか、ラッコとカワウソの英語名を考えたりするとき、も似たような感覚にとらわれることがある。物差しの違いとか相似形をとるときの規準の違いなど、言葉が異なれば変わってくるものがある。Metaphor以前にこのあたりの感覚が母語である日本語でどうなっているのか、英語教師も少しは気にした方がよい。