『如何なる星の下に』

tmrowing2013-08-10

北海道・東北の「七夕」も終了。
猛々しいほどの夏。
ストレスを感じているのか、「呟き」は議論には向かないと分かっていながら、不毛な一時を過ごし、自分の不明を恥じる。
この手のSNSは楽しく使ってナンボであろう。
その「呟き」から転載。

「今シーズン、最も評判の良いドラマは?」「唐沢なをき?」「ブー」「じゃ、浦沢直樹?」「ブブー」「あぁ、半沢直樹!」「いいえ『妻は、くノ一』です」 「そんなぁ〜」「瀧本美織と若村真由美が親子役です」「知らないよぉ」「因みに『は』と『く』の間は『、』読点です」「てんでついて行けない…」

ということで、惜しまれつつも来週が『…、くノ一』最終回。

正業ネタから。
担任としての学級経営と進路指導になるのでしょうか。生徒を連れて広島大学オープンキャンパスに参加して来ました。
いえ、バスを運転して頂いたのは教頭先生なんですけれど。
2時間ほどで到着。
暑い。
卒業生が、理学部でゼミのデモをしているというので視察。
そのまま広大の院に進むそうで、元気そうというか、楽しそうに自分の研究を語っていて、嬉しく思いました。後輩が続けるよう、私も頑張ります。
大型バスで乗り付ける高校、保護者と一緒に回る高校生、思いはいろいろなのでしょうね。
一通り予定を終えて、途中からではありますが、「教英」の部屋へ。
入室したら調度、柳瀬先生のお話。
熱い。
参加している高校生を挑発しまくっていましたね。
生協で本を数冊購入して帰路。

で、本日は、その本を読み進める一日。
まずは、

  • 荒川洋治 『文学のことば』 (岩波書店、2013年)

から。日々の余白に書き留めておきたい一節を記しておく。

外部にいる人の力がはたらいたとき、これまであったものを打ち破ることができる。そのように、人はいつも他の力を借りなければ、自分の姿を知ることはできない、と理解しても良い。 (p. 35)

これは、森鴎外の『杯』にまつわる話し。(「和暦・西暦」、pp.34-36)

中学、高校、大学教育の盲点を知らされた思いだ。国際感覚、情報社会というけれど、もっとも基礎的なことを教えられていないのである。これは大きな問題だと思う。
七人が、外の世界を知るためには「第八の娘」がいなくてはならない。世界とつながることで、自分を知る。それは101年以前からの真理である。 (p.36)

飯島耕一 「ゴヤのファースト・ネームは」を取り上げる「知るという風景」 (pp. 60-65) から。

いまは学生も、おとなも、自己愛の人が多い。自己愛も自己中心も、決してわるいことではない。むしろ推奨したい。
そんなに自分のことが好きなら、その大好きな自分の家族がどのように生きたか、戦争期はどうしていたか、さらにその前の時代の人たちは何を思ったか、そのさらに前の日本はと、歴史、地理への興味は拡張していくはずだ。東京のことも岡山のことも、はるか遠いものではない。すべては、大好きな自分につながることなのだ。でもそのように思わない人がとてもふえたのだと思う。
「ゴヤのファースト・ネーム」を知りたいという気持ちは、そのような自己愛を成しとげるなかで、めばえるのだと思う。いま多くの人が、自分以外の世界に関心を示そうとしないのは自己愛が過剰なのではなく、自己愛が足りないからである。自己愛を徹底させ、発展させるべきなのだ。ほんものの自己愛にしていけば視界はひろがる。「生きる」ことが、いっそう楽しいものになるだろう。 (p.65)

などなど、荒川ならではのリズムで真理を吐き出している。
私が最も気に入ったのは、

  • 文学誕生以前の空気 (pp. 100-103)

高見順の『如何なる星の下に』に関する小論。
呼吸が合う、とはこのことだと思う。何往復しても泳ぎ疲れず、気持ちの良い達成感で水から上がれるような感覚で読み返した。

神経で書く、といいなおしてもよいだろう。劇的な場面はいらない。神経が、人を動かすのだ。災害、戦争などおおきなできごとの「あと」に書くことは容易だ。何かの「前」に書かれている。それがこの小説の、特別な重みである。かたちをもたない小説の中心を、わずかに残された神経がになうのだ。 (p.101)

という一節で思い出したのは、吉行淳之介の言葉。

  • 高見順氏と私 (『追悼の文学史』 講談社文芸文庫、2013年)

しかし、いつになっても、高見さんに会うことはいくぶんの苦痛を私に与えた。私は高見さんの人も作品も好きなのだが、その神経が苦手なのだ。その神経の具合がはっきり分ってしまい、分ってしまうから気を使い、気を使っていることが当然高見さんには分っている、と考える。 (p.74)

荒川が指摘する「神経」とは少し意味合いが違うようだ。
同書で、平野謙がこう言っている。

高見順にはいろんな顔があった。人々 (にんにん) に応じて、それにふさわしい顔をしてみせるくらいの芸は、高見さんには日常茶飯的だった、ともいえよう。(p.106, 「高見順断片」)

その平野の言葉で、反芻しているのは、次の件、

だから私は少なくとも氏にひっそりとしていてもらいたかった。そして現代作家が日常座臥あたりにまき散らして暮らしている自己の断片を、静かに拾い集めていてほしかった。要するに私は、死に臨んでさらに自己を拡散させるのではなしに、氏の『芸』の核であるはずの高間芳雄というさびしい人間を、その掌中にしっかりとにぎりしめていてほしかった。それこそ氏でなければできぬ唯一の仕事のはずであった。 (P. 102)

この吉行と平野の述懐を比べれば、荒川が、「平作者」の件を引いていたのも分かるような気がする。

明日は、小田実を読む予定。

本日のBGM: We let the stars go (Prefab Sprout)