endurance

朝カーテンを開けたらあたり一面真っ白だった。
二期入試も終了。新年度の人事の大枠は決まったが、最終入学者数が確定しないと授業時数が決められないので、合格者の入学手続きを待って教科会議。本業の選抜大会が中止となったことで、会議や仮入学、春季課外など関わる部分が増えたことを喜ぼう。
本業のトレーニングはエルゴ。1分オン1分オフを10セット。休憩を挟んで、高強度UT30分。明日は終業式の後、湖へと移動して乗艇の予定。
妻は友人を受け入れるべく連絡を取っているが、今のところ、3家庭、計8人が我が家に合流する模様。大人が3人、子供が5人、うち乳児1人。私は週末など本業の大会や合宿で家にいることがほとんど無いのだが、妻ができることをいろいろ考えて広い借家に住んでいたことが幸いした。妻は知人から、敷布団や掛布団をお借りして、部屋の準備に入っている。
内田樹氏も、ブログや新聞で呼びかけている「疎開のススメ」 (http://bit.ly/etlZOr) は元気な地域、元気な人たちが考え、実践しうる対応だろうと思う。単純な足し算引き算、足す分を少しでも引いておくことによるマージンの確保である。被災地から周辺部への避難を受け入れれば、周辺部の人口が増える。単純に食料だけを考えてみても、被災者が周辺部の都市圏に集中すれば1つのパイの一人あたりのシェアは減ることなる。その人口の増えた周辺部での物資の消費が増えれば、被災地への物流が鈍る可能性もある。周辺部からさらにその周辺、またはもっと遠くへと人が動けばその分周辺部での被災者の受け入れは容易となり、それと入れ替わるように救援に携わる人たちが被災地でその活動を持続させることが容易となる。首都圏、近畿圏だけでなく、私の地元の山口県や九州諸県でも公営住宅での受け入れを始めているが、そういった公的な家屋の確保だけでなく、人の繋がりで「暮らし」ごと受け入れるのが疎開の利点であろう。「義を見て為さざるは…」とはいうものの、大きくても小さくても、義だけでは続かない。

夕飯はワンタンスープと納豆とレタスのチャーハン。
天明を少し飲んで、『思想の折り返し点で』を引き続き読んでいる。
二人の言葉を少し引く。

  • 日常生活に根ざすとは、あまりの悲観や楽観をやめにして、目の前のところから出発していくことでしょう。(久野収、「自分は石をどこにおくか」、p.82)
  • 私は、自分の思想は自分の生活だと思っています。自分の思想、自分の生活が自分を説得することができるかどうか。これが自分の勝負どころでしょう。(鶴見俊輔、「若い演技力とマスコミ」、p.86)
  • 個人の中で自分の根に向かっていく。いつもゆっくりと考えていくから、時の流れでフワフワ変わらないんです。時の流れに立って、ある程度、対抗できる自分の根を求めているわけ。根に向かう精神ですね。それがラジコです。(鶴見俊輔 「根に向かって下がっていく精神」、pp.122-123)
  • 勇ましい英雄的行動をやろうといっているんではなくて、ぼくのいうのは、持続なんです。とにかくはじめはだれも勇ましくやりますが、少数になると、つづかない…。 (久野収 「まともさ」の感覚について、p.189)

ポップカルチャーの世界では以前、元春が「言葉の弱さに燃え尽き、そして君は歌うだろう」と歌った。言論界は今こそ、ものを言う時だろう。

本日のBGM: Everlasting Arms (Mike Scott)