種を蒔く人

金曜日は、授業を振り替えて地元の研究会へ。
その1は、保健の授業を参観。体育館の窓が開けっ放しで寒かったのが難点。それ以外は見ていてかなり楽しめました。身体操作と自分のモニター能力という着眼点は良いと思ったのですが、グループでの相談に時間を掛けすぎのような気がしました。「肩胛骨リズム」という着眼点は教師の側から与えても良いのではないかと。中学高校の体育の教員で野口整体とかやっているひとってどのくらいいるのだろうか?素朴な疑問。
その2は中1英語の授業参観。
会場となる教室でY先生と遭遇。先日のフォーラムの御礼も。
授業を見終わって、昨年、りえ先生に蒔いてもらった種は確実に芽を出しているのだなぁ、と実感。地元を大切に、深く広く根を張り、そこから新たな種を風に乗せて飛ばしていって欲しいと思います。
午後からは、分科会という名の合評会。
質疑応答は余り盛り上がらず。
私は、グランドデザインを確認したかったので、

  • 対話文やモノローグでのナラティブで「音に意味や気持ちを乗せる」というのは取り組みやすいと思うが、この後、説明文・論説文へと発展していく時に、今やっている音読からどのように繋げていくのか、見通しのようなものがあれば教えて下さい。

という質問をしてみました。中学校の先生からは、まだそのような段階にはないとの答え。ここは、指導助言者の方に振ってみても面白かったかな、とも思ったのだが、多分、研究主題の設定時から深く関わっているわけではないと感じたので、そこまでにしておきました。関係者にお礼を言って学校へと戻り本業。

ところで、中高の研究授業とか、全英連の分科会での発表って、必ず「指導助言者」という方がいて、最後にコメントをしますよね?あれって、どういう狙いで設定されているものなのでしょうか?
大学の先生方が集まる「研究者」で作る学会での「研究発表」なら、まだよく分かります。その道の権威者から「斬られる」ことによって、リサーチデザインから、資料の解釈、さらにはプレゼンのスキルまで修正を求められ、実際に仕切り直すことが可能となるので。
「授業実践」に関して言うと、どうなのでしょうか?その授業をやり直すことはできないわけですよね。にもかかわらず、「形式」をなぞっただけのような、実質、突き抜けていかない「講評」がままあるように思います。その年次の研究主題があるのであれば、その「主題」に照らし合わせて、「現在地」の捕捉、歩測をすることには意味があろうかとは思うのですが、なんだかなぁ、という気持ちになることも。変な譬えですが、水戸黄門の各回の終わりにちょこっとくっついている「語り」の文言って、有難味がないよなぁ、という感じ。まだ脚本も演技もしっかりしていた昔のドラマ『水戸黄門』じゃないと当てはまらないのですが、

  • 大活劇の後、印籠が出て一件落着、悪人を懲らしめた後に、その回のメインの登場人物に対してかけられる人情味ある黄門様のお言葉を経て、めでたしめでたし。黄門様御一行新たな旅に向かう…。というところで流れる「まとめ」の言葉に、そこまで感激して自分が見ていたドラマが矮小化されてしまったような気持ち。

ですかね。
その一方、研究授業を見せてもらえるのは、その地域や全国的に見て先進的な、または実験的な学校であることが多いので、そこで披露される取り組みに対して、参加者の方から、「ウチの学校ではそれは無理で…。」「ウチの生徒はそんなレベルではないので…。」という前振りで、「お悩み相談室」の予兆が感じられる時もあります。そういう時は、司会の力量が問われます。司会者には、その合評会がゴールへと辿り着かないかも知れないけれど、そっちへ向かうように、しっかりと手綱をコントロールして欲しいのです。「いやいやウチの方が大変で…。」「何をおっしゃいます、大変さでいえば、ウチだって負けてはいませんよ…。」などという声にならない声があちこちで感じられると、何だかなぁ…という感じがします。どんな優れた実践も、その前の指導の積み重ねに依存しています。そして、よく見える実践に教師も生徒も必ずしも満足しているとは限りません。参加者は、そういった前提や課題も含めて、お手本とぴったりと重なる「合同」の図形ではなく、自分自身の教育現場における「相似」形を見いだす感性が求められるのではないかと思います。
今回の研究授業に限らず、中高現場の授業実践の発表とその合評会に関してのないものねだり。

  • 「指導助言」をするくらい見識もあり、印籠を出したら皆が平伏すくらいの力量がある方に、あえて「司会」をしてもらったら、授業者も参加者も満足度が高まるのではないでしょうか。

フロアの理解が不十分だったところには、質問やヒントを投げかけつつ回答を誘導することで、全体での理解の共有を促したり、一回の授業を見る視点・着眼点を越えて定期試験までの一連の流れ、1学期、1年間、さらには3年間のスパンで見た場合、この授業はどういう位置づけになるか、という「鳥の目」「ヘリコプターの目」からのガイダンス、そして、最終的には、授業を行った教員本人に、自信を持って成果を語り、悔しさはあれども打ち拉がれることなく今後の課題と決意を言わせてしまうくらいの演出。そういうのが見たいものです。そういうことが司会でできるのは、やはりその地域の英語教育を支えてきた実力者だからこそ、ではないでしょうか。どこかでそんな研究会があったら見に行きます。
個人的には、お手本としての1回の授業を参観して、それについて何かを語り合い、学び合おうという欲求はそれほどないので、みんなが気軽にそれぞれの実践を持ち寄り、ただ並べてみる「…なんです山脈」型の実践共有をどうにかして実現したいのですが、まだまだ自分にもどんな山脈になるのか「形」「姿」は見えていません。そもそも並べたら連なるのかさえ分かりませんから、時間がかかることでしょう。気長に待っている間に、自分の方が教員辞めてたりしたらちょっと残念だけど…。

翌土曜日は、午前中に学校で高2の課外授業をして、すぐさま空港へ。年内最後の上京ですかね。今回は某編集会議とイベントの参加。
編集会議はまだ詳細を書くことはできません。そのうち、目鼻が立ってきたら著者代表の方からアナウンスがあるでしょう。短時間でしたが、私の良き理解者でもあるお二人と話ができて良かったです。なんだか、鍋をつついてばっかりだった気もしますが、良いものができるよう、私も尽力させて頂きます。
イベントは楽しかったです。(←典型的J1型の日本語表現)

  • 心にひびく英詞の歌---ピーター・バラカン出前DJ---

計11曲。フルコーラス聴いてから、バラカン氏による解説。一部フロアとのやりとりを経て進んでいきました。セットリストは、そのうちにバラカン氏のオフィシャルサイトかブログで公開されるでしょう。懇親会では、飲食をしながら、バラカン氏としっかりとお話ししましょうという企画。私も自分の素性を明かし、授業で歌を扱っている旨を伝えて、生徒に向けてのメッセージをiPod nanoで録画して帰って来ました。
一番の冷え込みとなった月曜日は振り替えた授業の戻し分もあり、大童。師走の先取りです。午前中は4コマ連続。
まず、高1のオーラルは歌詞を確定する前に、各人の聴き取った音をカナでも良いから示す課題。歌詞カードをホワイトボードに貼りだし、シャトルランで確認・修正。一カ所だけ歌詞カードとCDの歌で異なる部分があるので、それを聴き取るためにもう一度リスニング。韻を踏む箇所の確認と、詞の構成を確認。前任校の生徒が書いたコメント集を配布、印象に残った英語にラインマーク。
東京でピーター・バラカン氏に会ってきた話しをして、早速、TVモニターに繋いでビデオメッセージを見せておきました。その一節がこちら、

Music is the best way to learn English. If you can find someone you like, sing along with it tens of times, hundreds of times, and copy the pronunciation. And you’ll end up speaking much better English. Go for it!

私の生徒がこのメッセージの重みに気づくのがいつになるかはわかりません。60年代に青春時代を過ごしたバラカン氏は私より一回りから二回り近く上の世代ですから、今の生徒にしてみれば、もうおじいさん世代です。しかし、私のように彼の番組や著作で育ってきた者としては、今のように、いや今以上に歌を授業で扱い続けたいと思います。バラカン氏がその時々のヒットチャートやセールスだけに囚われることなく、自分の感性を信じつつ、でも時にそれを逸脱して、聴く耳を広げることで豊かな音楽体験を積み重ねることの悦びを教えてくれたことに心より感謝しています。自分の内に蒔かれた種を育て、その花がつけた新たな種を風に乗せて飛ばす。授業で歌を使い続けるのにはそんな想いも込められています。

高3は語彙・語法で2コマ。
『Upgrade』では、品詞毎に項目が分かれているので、授業では横断的に見ていき留意点を。
まず、日本語では「広い」も「広く」も形容詞であることを確認。連用修飾、連体修飾という、日本語の「体言」「用言」という概念を上手く利用するよう助言。そこから、

  • 部屋が広い

という時の「広い」はwideかlargeか?基本語の使い分けへ。

  • three times as large as …

という
倍数表現は馴染みがあるだろうが、このlargeのように形容詞ではなく、

  • three times the size of …

などと名詞で表現する際に、largeに対応する名詞がすぐに口をついて出てくるか、品詞間の行きつ戻りつは大丈夫かを確認。
物理的な「部屋の広さ」を形容するには、”large” が適していたわけだが、

  • 広く読まれている本

などの広さを副詞で表したい時には、largeという形容詞からの派生では上手く行かないので思案のしどころ。絶版の『綿貫本』の問題文から “a widely-read book” を示して、最上級の “the most widely read book” まで確認。こういう意味では “largely” の出番はないことを実感してもらう。「では、largelyはどういう時に使うのか?」そこからが自分の勉強。入試では、hardとhardlyなどのスペシャルな語ばかりが取り上げられがちだが、日常語で基本語として扱われている語の使い分けが自信をもってできるのか、一度丁寧に辞書に当たる価値はある。
中学校でもお馴染みの、

  • favorite

は形容詞として扱う際には、比較変化しないのが「原則」であることを確認。原則があれば、例外もあり、例外が意外に多いのが悩ましいのは世の常。「最上級」の級はclassでもあるので、複数の構成要素で成り立っていてもおかしくないのが英語の世界。「大好きなものを集めたクラスの中でも一番」とか「群を抜いて」とかいう気持ちのときには当然のように、favoriteを修飾する語句がつくのでした。名詞を修飾する形容詞としては、big; great; heavy; strong; top; hotなどの他、first; second; thirdなどの序数が目に付きます。veryが使われるのは、最上級の意味を修飾しているからと考えるべきなのでしょうか。最上級を強調するabsolutelyの他に、mostなども実際に使われていますし、逆にマイナス方向に向かって leastも使われているのが実態。入試問題でfavoriteの語法を問う狙いは何?
続いて、「助言」という日本語から、

  • 不可算名詞のadviceに対して、数える時には何の助けを借りるのか?
  • 可算名詞で使われる名詞の類義語は?

と問うて、 “piece (s)” と“tip (s)” を得る。同様に、homeworkとassignment (s) なども扱う。
right とwrongの対比では、

  • You have the wrong number. 「番号を間違ってかけていますよ」

は4択でも、和文英訳でも誰も間違えないのに、

  • 済みませんが人違いだと思いますよ。

だと英語が出てこないというのはなんだか妙にバランスが悪いように映る。

  • Sorry, you have the wrong person.

“wrong” が正しく、適切に用いられる文脈で20個ほど「生き直して」みれば良いのだ。それには、良い辞書を手元に置くこと、手元に無ければ、教室にある学級文庫で引きまくることである。
その他、今日、辞書で確認したのは、

  • almost

の例文。「全か無かの法則」を適切に当てはめられると、この語の肌触りが馴染んでくると思う。いつものMEDから紹介し、読み上げ、書き取らせた。

  • “Are you ready?” “Almost! I’m just putting my shoes on.”
  • It’s almost a year since she died.
  • The baby’s almost walking now.

この3つの用例が本当に雄弁である。「精読」というと、構文が複雑な英文をきちんと読み解くことと思われがちだが、精読の基本は、一語一語を忽せにしないことにこそあるはず。
『新グローバル』 (三省堂) では、”Have you finished?” “Almost.” という用例があるのだが、「惜しい」。どのような状況をalmostが表しているのか、という痒いところに手が届かない。その補足がMEDでは効いている。
数量に関して言うと、英和辞典のほとんどが、「10」とか「100」などのキリの良い複数の修飾語としてalmostを用いているのに対して、MEDでは “a year” である。なぜ、「1」年が「全」なのか?と首を傾げている場合ではない。almostという語が修飾する語を話者は「全」とみなしているのだから、ここでは「(365日で一つの単位が完結する) まる一年」という実感、例えば、「おばあちゃんが亡くなってもうすぐ丸一年だね。」とでもいうような実感を捉えなければ分かったことにはならないし、使えるようにはならないだろう。
最後の例では、「たどたどしい足取り」とか「我が子の成長を喜ぶ親」といったイメージを思い浮かべてこそ、「例文を生き直す」ことが可能。
コーパスで得られた用例が事実として現実での発話から得られたものであっても、その用例を取捨選択し、必要とあらば、修正や脚色を施すことも「外国語辞典」では必要。新機軸を謳うだけではなく、語義と用例を今一度見直し、河村重治郎氏や山田和男氏、近いところでは山岸勝榮氏ら先哲・先達が『英和』『和英』を作った時の仕事を振り返る時期のように思う。
田邉先生を真似て辞書を愛で始めた私に習って、第一歩を踏み出す者が一人でも出てくれればと思う。
普通科2年は、活用表を用いてのペア出題。活用表にある、どの要素を出題されても、正しい活用を、きちんとした発音で答えることが条件。スラスラ言えない場合、発音がおかしい場合は出題者がお手本を示し、リピートさせる。制限時間内でペアをどんどん替えて実施。
ようやく昼休み。授業担当者会議を終えて、5時限目に昼食。
6限で、進学クラスの高2。
「仮定法」シリーズでは、if節を用いない条件設定の導入。
「正しく、適切に用いられた英文」を自分の暗唱に活用する、とういうのが原理にしてゴール。

  • 仮定は疑問の消去形

というのは、過去ログ (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091102) などを参照のこと。
ホワイトボードに採集してあった用例のタイプ2、タイプ3を吟味して、ifを用いない条件節に書き換えていく。この過程で、うまく書き換えられるものと、手をつけられないものとが見えてくる。いや、「者」ではなくて、用例の方ですよ。書き換えが合同、等価になることは稀。では何のために書き換えるのか?パラフレーズや要約も同じこと、今以上に原文に迫るためでしょう。もどかしさを経た「気づき」の積み重ねです。
清掃指導をして放課後。外庭掃除も寒さ対策が必要になってきました。
本業は、土日で私が不在の間、エルゴ修業を課していたので、自主練という名のオフ。だって、明日は測定ですから。

帰宅すると、『指導者のためのスポーツジャーナル』 (日体協) の冬号が届いていた。特集は、

  • 理想のスポーツ環境とは---『スポーツ立国戦略』と指導現場

有資格者には毎号送付されてきますが、各競技のトップ選手、指導者の話だけではなく、助成金など「お金」の話しの連載もあります。スポーツの実況や報道を担当するメディア関係者にも目を通して欲しいと思います。
今号では、「トップコーチの情報源」での、佐藤信夫氏 (フィギュアスケート) の話しが印象に残った。一部を引いて本日はお終い。

  • 「このスポーツで日本人が世界の頂点に立つことはまずないだろうな」と現役時代は考えていました。私たちの年代では、浅田真央や安藤美姫のような手足の長い日本人はジャンプを跳ぶのに苦労していましたから。コーチとしてあきらめないでやってきて良かったというのが本音です。(中略) 日本はリンクの製氷機さえなかったのですから。今でこそ日本人といえば「じゃあやるだろうな」ってジャッジは構えて見るようになりましたが、そこへ行くまで私たちは50年かかりました。
  • 札幌オリンピックに向けて日本代表の専任コーチに抜擢され、当時ヨーロッパから招聘されたトップレベルのコーチと一緒に指導にあたった時のことです。日本では長くアメリカスタイルが主流で、ヨーロッパ式の技術を受け入れ、消化するのが大変難しかった。いまのように簡単に海外の情報や映像が行き来する時代ではありませんから。先生が2年目に来日された時「1年目に教えたことを誰もやっていない。僕はもう必要ないので帰る」とおっしゃった時は慌てました。指導内容を受け止めるのにも10年は悩んだでしょうか。/ でもその後、先生のおっしゃった話しはいろんな場で活きてきました。大切なのは中途半端に聞き流すのではなく、一度は教えを真剣に聞き、考えること。時代の波にのって変えるべきもの、変わらないものを見つめることでしょうか。 (p. 44)

本日のBGM: Day after tomorrow (Linda Thompson)