”Where do we go when all is said and done?”

台風は地元を逸れて、関東地方を襲った模様。妻が横浜まで出かけていたので、ちょっと気がかりのまま、湖へ。
いつ降り出してもおかしくない空模様の中、選抜大会の県予選がスタート。男子1Xで予選決勝とも無事に1位通過、来週の中国予選会に駒を進めました。決勝の序盤では腹切りをして危ないところでした。来週は、こんなミスをしていてはレースにならないので、全レース終了後、他校の3年生にもう1本1000mを並べてもらいました。カタマランのトラブルで、後半が見られなかったのが残念。揚艇の頃に、土砂降り。選手は事なきを得たようですが、カタマラン組はずぶ濡れ。ご苦労様でした。
あと1週間、きっちり練習をして、週末の中国大会に備えます。
さて、
フォーラムの振り返り。
大津由紀雄先生の講演。
来週の全英連神奈川大会での基調講演者ということもあり、講演のテーマがかぶらないように配慮していただきました。ご無理を言って済みませんでした。
講演のタイトルが、

  • 「起着点母語、ことばへの気づき経由、外国語周遊券」の勧め

ということで、パワーポイントのスライドで、自作の周遊券を見せながらのスタート。ここでのポイントは「期限がない」ということでした。ご著書からの「言語教育の構想」の図式を示しながら、

  • 「外国語学習/教育について考える前にきちんと把握しておかなくてはならないいくつかのこと」

を、例外なども含め、かなり丁寧に説明。「仕組みと働き」、「必要条件と十分条件」、「ほぼ無意識的 vs 意図的・意識的」、「学習文法・学校文法」、「繰り返し、分析的理解、英文解釈と英作文」というながれで、重要なところを押さえていく。ここでの最大の肝は、

  • 「コミュニケーション能力」はことばの仕組みと働きについてのきちんとした理解を前提とするが、その逆は真ではない。

という部分。ここを踏まえておかないと、「なぜ、起着点母語?」という疑問が拭えず、表層的な批判を生むことになるだろうと思う。昨年、神戸でナラティブシンポがあったときに、私も「語る」側で呼ばれて、大津先生の「語り」を聞いたのだが、あまりにも「コミュニケーション能力」ということばが英語教育界で強調されたがためか、この部分をきちんと受け止めきれない人がかなりいたように感じていた。「ことばはコミュニケーションのためだけじゃない、それどころか…」という「…」の部分にスポットライトを当てる前の段で引っ掛かっている人は多いのかも知れない。
その後、「言語の普遍性」で、普通名詞としての「言語」と抽象名詞としての「言語」の違いを説明。言語の普遍性というのは、生成文法の専売特許ではない、という件は、某氏の批判に対する反論かとも思えたが、深く突っ込むなどという野暮なことはしなかった。
母語での、ことばの仕組みと働きを身につけていく過程として幾つか事例を紹介したのだが、ここでのポイントは「メタ言語知識」。いよいよ、「気づき」の総本山への参道に足を踏み入れたという感じ。
この「気づき」という用語に対する私の個人的な違和感というものも、随分と様変わりをしてきた。今回のフォーラムでは、敢えて、この用語を前面に出して全体の基調テーマとして設定している。このブログの過去のエントリーでも、

  • そのうちに、「宣言的気づき」と「手続き的気づき」などといって分類分析に躍起になるのでは?

と警鐘も鳴らしている。私の心の中で、尾崎豊と森田公一の掛け合いで突っ込みが入るのが、

  • 大人たちは、「気づけ、気づけ」というが、俺は嫌なのさ。卒業までの僅かな時間で、いったい何に気づけというのだろう?

というもの。
今回の大津先生の講演では、ことばの仕組みと働きで「気づかせる対象」を3段階に分けることで、「普遍性」というキーを上手く使い、直観の利く「母語」をスタートとする利点を説いていた。
大津先生といえば、「バナナワニ」と「ワニバナナ」が有名で、私などは

  • では、「ワナナバニ」って何?

などと無意味な突っ込みを自分の心の中でつぶやいていたのだが、今回は「温泉饅頭」を例に、「饅頭温泉」を小学生に絵に描かせた話しなども紹介。今思えば、ここはもう少し、フロアーから突っ込んで聞いて欲しかった部分。とりわけ、日本の英語教室では「文法」は、とにかく「一文」を完結させることに主眼がおかれているために、「一文を越えた文の働き」、「文をつくる構成要素としての『語』や『句』のしくみ」の双方とも教える側の理解、指導の基礎技術がまだまだ貧弱であると個人的には思っているので、広島大の柳瀬陽介先生が質問をして、午前中の柳瀬和明の「広がりと深み」との共通点・相違点を浮かび上がらせようという切り口ができた時にもう少し自分で動けば良かったなと反省。
今回の講演は、最後に、

  • 「ことばの気づき」教育の基盤にある考え方

として、その背景となる理由・必然性をまとめたところで終了となり、「小学校英語活動」との絡みで、個人的には「いよいよここからなのに…」とやや食い足り無さが残った。この「気づかせる対象」をいかに、段階的に学校教育、授業の中に仕組んでいくか、教材化・シラバス化・カリキュラム化が「言語技術教育」で問われていることであり、「小学校英語活動の欺瞞」に対する異議の表明の次に実現させなければならないことであると感じた。教材化は着々と進んでいるとのことだったので、詳しい話しは来週の全英連、そして今後の大津先生の動向に注目を。
講演の中で、さりげなく口にされていて印象的だったのが、

  • たとえ大人や教師の側から見れば間違いであっても、その子の発達段階では、そのことばは「正しい」使い方の現れなのだ。

ということと、

  • 「普遍性」の定義には流派があるが、「普遍性」があるということに異論はない。

ということ。

明日からの教室で即使える、お得な「技」とか「術」というものとは対極にある、敢えて「○○」とは言いませんが、ことばの教育の礎のようなものに触れることのできた講演でした。

本日の振り返りはこの辺で。

本日のBGM: The great unknown (Travis)