力力!

日本英学史学会 中国・四国支部ニューズレターの第50号の編集後記に興味深い記述を見つけた。
「広島英学史の周辺 (16)」と題された中に、次のようにある。

  • 30年前は私が中学生になった頃。『ブリタニカ国際大百科事典』(TBSブリタニカ, 1975)を前に、学問の面白さに触れ始めた頃だったかと思います。▼事典の別冊『スタディガイド』には、三樹精吉「百科事典の積極的利用法」があり、百科事典を出発点とする研究の道筋が描かれています。(中略)▼百科事典は、研究の入り口としての「知の集合体」と言うことができるでしょうか。30年経った今も手放せないのは、その入口の充実ぶりにあると思います。たとえば「英語」という項。14ページにわたりSimeon Potter(宮田斉訳)の英語史に関する解説が続きます。(後略)(参考アドレス→ http://tom.edisc.jp/eigaku/newsletter50.pdf

まさに、私もこの百科事典で学ぶことの面白さを体感した一人である。あまり裕福とはいえない家庭であったが、父が当時「この百科事典は良い」、といって早々に書棚に揃え、以降、頻繁なアクセスに堪える環境を作ってくれた。毎年、年鑑を別冊で出してくれていて、それで日本・世界の動向を振り返るのも楽しかった。1975年はテニスプレーヤー、アーサー・アッシュが黒人男性として初めてウィンブルドンを制した年。そして、女子ダブルスでは、沢松和子が日本人として初めて栄冠に輝いた年であったと記憶しているのもこの年鑑のおかげだ。
先日のブログで「情報を求めることに躍起になり本質を考えることを見失う愚」の話を書いたのだが、「知識を仕入れること」「知識を整理すること」はなんら唾棄すべきことではない。知識は大いに仕入れるのがよい。ただ「知ることにより見えてくる新たな世界」が存在する一方で、「知ってしまったがために見えなくなる世界」も存在するかもしれないという覚悟が必要だし、そもそも「知ることなど出来ないかもしれない世界」があるという畏れを忘れてはならないだろう。ITの利便性を追うあまり、手段と目的を混同してしまうことを危惧する。
知識を仕入れる、大いなる知の世界に足を踏み入れるとき、ややもすると初めから「精選された」「豊かな」「他よりも優れた」知識を求めがちである。知のグルメよろしく、情報をインターネットで検索したり、先行研究を精査するのに、まず他の論文の参考文献一覧を集めることにエネルギーを費やす人も多い。そのような知との関わり方で得られた知力は本当に自分の力になるのだろうか?ここで私がいう「力(ちから)」とは斉藤孝氏がいうような「力」ではない。稚拙な比喩で言うなら「知の体力」はどのように養われるのか、という問いかけである。小学校から高校まで、ITに依存した知の栄養摂取を続けて来た世代が社会に出ている時代である。大学でのレメディアル教育でも、藤田哲也編著『大学基礎講座』(北大路書房、2002年) などを見る限りでは「図書館の利用法」に始まり「ネットによる情報検索」などITを使いこなすことが重要スキルとして盛り込まれている。
巷でありふれた言葉で形容するなら、いっそ思い切って、「知のロハス」「スロー知」でも目指してはどうか?「知の永田農法」でもいいかもしれない。トマトはやせた土地で育つほど糖度が増すという、アレである。

  • みんな単純に、体力をつくるのだから栄養のあるものをたくさん食べようと言う。だから体力作りの会の中で一番幅をきかしているのは食べ物やさんで、バターを作る会社やら、特に栄養食品を扱っているところがいつでも体力をつくるのは自分の専売であるような顔をしてとうとうと喋っております。けれども栄養の豊富なものをたくさん食べることが体力を増やすことなのだろうかと言うと、あまり栄養のないものでも何でも食べて、それを体力にすることが旺盛な方が体力があるのです。栄養物を欠かしたらすぐヘナヘナになるというのでは体力があるとは言えない。つまり、上等な食べ物を食べていなければ栄養を保てないというようなことは体力のある人のやることではないのです。むしろ、何を食べていても体力がなくてはいけない。(野口晴哉;昭和42年10月活元指導の会、『月刊全生』2007年7月号より抜粋)

随分古い講話の引用だが、この「食べ物やさん」とパラレルなものを想起してもらえれば、私の意図は伝わるのではないかと思う。なんでもかんでも「力」のラベルを貼り付けて、必要以上に知識の体系を分かりやすく切り取ることで、読者に物事の本質が分かったような錯覚を持たせることには賛成しかねる。まるで「ものごとのしくみや人間の営み、そして自らの生き方に必要で有効な『力(ちから)』を見いだす能力」を「力力(ちからりょく)」という、と言われているみたいな居心地の悪さを感じるからである。とにかく最初からはずれくじを引かないような知恵を働かせる生き方には魅力を感じない。前述の三樹精吉の薦める研究の道筋とは、楽をして効率の良い情報検索をしようというものではない。関連情報・対立情報などの選択整理に基づく「目的物の体系的な組み立て」にあるはず。どうせなら、「はずれくじを10本集めて、景品と交換する」くらいの心根で情報社会を生きてみてはどうか。

何を読んでも、何を聞いても骨太で豊かな自分の知を育てることのできるきっかけ作り、土台作りとなるような授業を展開したいものだ。期末テストの結果を見て、しみじみそう感じた。

本日のBGM: 北京ダック(口ロロ(クチロロ))