直読直解、直聴直解

『中等教育資料』の8月号では、リスニングに関して、「あいまいさに耐え、聞いた情報を文字化せずとも処理できるような活動を生徒に課すことをまず教師が受け入れるべし」という趣旨のありがたいお話を、文科省の方が書いていた。こういう人は英語以外の他の外国語を学び初めて見ると良いだろう。あいまいさを許容する能力がより良い外国語学習者である条件である、などと学者・研究者はいうわけだが、では、「どのくらい理解できていれば耐えられるのか」、「ものの役に立つのか」、また「その段階までの理解度を伴わない学習者はわからなさ加減とどのようにつきあえばよいのか」、も併せて教えてくださいな。
さて、表題の直読直解に関して。
英文を理解するときに、意味の固まりごとに処理をすることを主張する人がいる。

  • What I want you to realize is that you can read English as it is written.

をチャンクに分けより小さい意味の単位で処理することの有効性を指摘するわけである。

  • What I want
  • What I want you
  • What I want you to realize
  • is
  • that you can read English
  • read English as it is written
  • you can read English as it is written

このように意味や構造に着目して文をより小さな単位に分けることによって理解を促す指導は私もよく使っている。
英文がこのようなチャンクに分けられる、またチャンクがつながって一定の意味を形成することがわかる、というのはいいだろう。ただし、そのそれぞれのチャンクを読むときに、いちいち和訳して読んでいるとしたら、ふつうの訳読と何がどう変わるというのか?

  • What I want you to realize あなたに気づいて欲しいことは
  • is that you can read English あなたには英語が読めるということ
  • as it is written. 書いてあるまま


このような断片的な日本語訳をつなぎ合わせて読むことができる学習者は、潜在的にその英文をふつうに和訳できるということではないのだろうか。

  • あなたに気づいて欲しいことは/あなたには英語が読めるということ/書いてあるまま

という連続を理解できるということは、その学習者の頭の中の処理では、

  • あなたに気づいて欲しいことは、あなたには英語が書いてあるまま読めるということだ

という日本語に変換されているのではないのか、ということである。後戻りせず、訳し下しをすることが逐語訳からの脱皮である、というのはあまりにもナイーブすぎるのではないのか。いや、訳し下しが、直読直解の第一歩であり、逐語訳とは全く異なる、というのなら、上記の英文と、

  • I want you to realize that you can read English as it is written.

とはどう違うというのだろうか。
日本語に変換しやすいことを優先して、二つの異なる英文を、勝手に同一の主題化で扱うようでは、チャンクごとの訳し下しが統一したシステムとなる日は遠いといわざるを得ない。
明日の英授研の準備で、追加資料を作成。Grammar Dictation (dictogloss) のワークシートをいつもの両面印刷。さらに、ダン・ラザー (Dan Rather) の対談とSuji Kwock Kim のポエトリー・リーディングのビデオをDVDに焼いてみた。時間があれば、この二つの現実の使用場面を使って、曖昧さに耐えることができるか、フロアーに問うてみたい。「こう聞いたら分かるはず」とか「こう聞こえるからこういう意味」という指導法の落とし穴というか、リスニングで難しいのは何か、という問いかけにはなるのではないか。