パラフレーズもサマリーも「表現活動」ではないのか?

高2の採点がようやく一段落。設問ごとの分析があるので、返却は水曜日か。高3ライティングは残す所あと、biographyのgrade付けのみ。今回の出題はPablo Picasso。何のことはない、GTEC Writing Trainingの課題を流用したもの。この週末は採点には使えそうもないので、月曜日から地獄のgrading days (& nights?) になりそう。木曜日には成績入力を済ませておかないと本業に差し障りが出るので頑張ろう。
週明けの授業は高2はグループプレゼンの割り当てと6月の歌。歌は Suzanne Vega の Lukaに決定。1987年作品なので、前回の Stephen Stillsからは17年新しくなっているのだが、それでも今から18年前。どういう反応を示すか楽しみ。ワークシートを作りながら 彼女のbiographyなどを眺めていて、1959年生まれと知ってちょっと驚き。もっと若いと思っていた。波瀾万丈の人生のようです。
高3ライティングは、「表現ノート」の第1回提出に際して、相互批評で丸々50分使おうと思う。ここでしっかりと意識付けをしておかないと長続きしないばかりか、クオリティの低いもので満足してしまう。その後は、いよいよ、 story grammarの導入。Picture storyです。高校3年でnarrative passageがどの程度のレベルで書けるのかを見せて欲しいものです。
5月31日付けの「複合技能としての『読み』」が多くの方からの反響を得てびっくり。考えたことを書き記しておくことは大切だと改めて実感。コメント欄でも書いたのだが、英語教育学者と呼ばれる人たちには、英問英答とサマリーに関して、もっときちんと実態を明らかにして欲しいと思う。「英問英答での学習者のthink aloud」とか、「サマリーライティングでの think aloud」などの国内高校生を被験者とした先行研究事例はどの程度あるのだろうか?英語教育の世界では「目標言語でのinteraction」を金科玉条のごとく教室での指導に当たっている教師が多いと思うのだが、L1での読解の授業である「国語」の授業では、どのように内容理解を確認していたか思い出せるだろうか?また、「今風」の国語の授業では、教師はどのような手法で内容の理解を確認しているのだろうか?「うーん、和問和答でした」とか「そりゃ、和問和答ですよね」とだけ答えて平然とはしていられないだろう。どのような質問をして、どのような答えを引き出しているのか?小学校の4年生くらいで、説明文が成熟してくる時期の授業を観察してみると色々なヒントが得られるのではないだろうか?
「英文を理解できたかどうかを確認するには和訳をさせるのではなく、学習者の言葉でパラフレーズさせるのが望ましい」という考え方はもっともらしく聞こえるのだが、これを国語の授業で考えた場合にはどういうことになるだろうか?国語の授業で「パラフレーズ」をした経験はあるだろうか?さらには「サマリー」を作成する活動は小学校の4年生くらいで行っていただろうか?
パラフレーズもサマリーも大変スバらしい、望ましい活動なのだろうが、「内容が理解できている」ことが前提にあり、しかも「英語で表現できる一定の語彙と構文が身についている」ことが前提となっている活動ではないのだろうか?パラフレーズやサマリーがうまくできない学習者に対するガイダンスやフィードバックを考えた場合に、口頭で行うのは教師にも学習者にも大きな負担を強いることになるのではないだろうか?和訳にかかる時間は無駄なのかもしれないが、うまくパラフレーズできなかったり、うまくサマリーできなかったりする学習者にしたところで、「意味は分かっている」のかもしれないのである。結局の所、「理解を理解として」確かめる方法が貧弱であることには変わりがないのではないのか?最新のリーディング論を研究している人たちはすぐに、recallとsummaryでの比較などを計量的に行いたがるのだが、そのもっと前にクリアーしておかなければならない重要な問題があるのではないだろうか。
国語の先生方、知恵を貸して下さい。

本日のBGM: 『悲しいほどお天気』
松任谷由実 (1979)