居心地の悪い授業

昨日は、いつも大変お世話になっている編集者の方に、東大の阿部公彦先生を紹介して頂いた。私の知人で大学で米文学を教えているS先生もお誘いして、吉祥寺で会談(?)。とりたててテーマがあったわけではないのだが、阿部先生の関わっている「若手の会」などの話も伺うことが出来た。私を除く3人は文学が専門なので共通の知人の話題などで盛り上がっていました。結構な時間を過ごして散会。皆さん、お疲れ様でした。
水曜日は飛び石で、1,3,5限の授業。高3ライティングは、自己紹介に用いる形容詞を5つ選び、それを具体的な動作・活動を表す動詞でいいかえる口頭練習を3つペアに組み替えて行ったあと、個人でワークシートに記入する作業。評論文などの読解が中心となりがちな高3生は、意外に動詞の持ち駒が貧弱である。市販教材を教室に持って行き、「再入門の社会人用教材には事欠かない日本の市場だが、高校生の日常を表していて、しかも高校生レベルの英語力ですぐにお手本に出来る、まとまった英文を書く教材はほとんどない」ことを強調。そのかわり、「アンテナ」さえ敏感に張ることが出来れば、どんな英語も教材となりうることを指摘。
高2は4月の歌第二弾。昨年度と同様ダン・フォーゲルバーグ(Dan Forgelberg)の leader of the band。歌詞の内容はやや複雑な物語なので、主題や人間関係をつかむのは前回の曲よりも骨が折れるはず。だからこそ、この曲を扱っているのだが、特に男子で「自分が解らないことを前提としてタスクの解答を記入することを嫌がる」、つまりその部分を白紙で出す者が目立つ。ええかっこしいもたいがいにしろと言いたい。なぜ、答え合わせを基本としないで歌の課題をやっているのか。わからないときに何もしないのでは意味がないのだ。悲しいほどよくわからない経験を踏まえて、わかることから解きほぐしていくという語学の基本姿勢を早く覚えてもらわないと。
その後、第一課の語彙を概括するワークシートで練習方法を説明。中1など入門期にはあれほど易しかった語や表現にもかかわらず、練習を繰り返したはずなのに、高2、高3とコトバそのものが難しくなってくると、意味を理解しただけで先に進み練習が貧弱になっている傾向を指摘。練習方法を一から見直すよう強調。
今年度は未だ文法の説明をしていないのだが、授業後に、他の授業か何かで扱ったのであろう文の質問に来た生徒がいた。

  • 1) I had my passport stolen.
  • 2) My passport was stolen.

「私はパスポートを盗まれた」という時に、なぜ2ではだめなのか、というのだ。「それまでに何の話をしていたか、を考えると、どちらがより自然か、ということにはなるが、1文だけとりだして『あってる、あってない』ということに余り意味はない。1は『私のことについての話』、2は『私のパスポートについての話』」と答えたら、2だと「stolenで私のパスポートは盗品です、という意味になるのでは」と来た。おいおい、さっきと質問していることが違うでしょ。わからないから質問しているんじゃないじゃないか!!こういう人を値踏みするような質問の仕方が気に入らないなぁ。それを差し引いても、stolen が名詞で盗品っていう理解をされても困るので、「stolen = 盗品って誰に聞いたの?どの辞書に出ていた?」と逆に聞いておきました。そもそも塾・予備校であれ、学校であれ、ある先生が説明したことに関する質問なら、その先生のところに行ってしつこく食い下がればいいだけのこと。こういう、安心できる立ち位置でしか動き回らない行動様式を高校生くらいで身につけてしまうのは感心しない。
きめ細かく配慮され計画されお膳立ての整った「生徒主体」の授業がもてはやされ、じれったさとか、もどかしさとかを痛感するような瞬間がどんどん授業から失われていってはいまいか?教師として授業の伏線は張っておくものの、何でもかんでもサクサク進むテンポの良さは警戒したい。意味のある居心地の悪さ、学びの奥の深さ、教師の持つ得体の知れなさ加減を追求したいと思いながら帰途についた。