跳ぶ前に見よ

とあるメーリングリストで「和訳先渡し授業」をあげつらって、個人に対して誹謗中傷すると言う騒動があったそうだ。現代のネット環境では健全でいて突き抜けた議論が難しいことを知るには払う代償が大きすぎたのではないだろうか。このブログでも、「和訳先渡し」というフレーズのみが先行し、実質何をやっているのか判然としないようなfollowersに関する批判は繰り広げてきた。私が一貫して言い続けているのは、「和訳先渡し○○」とした時の「○○」にはいる活動や技能がきちんとわかっていますか?ということが第一点。「○○」が「リーディング」とした場合の私のスタンスをコンパクトにまとめているのは、2006年3月29日の記事の最後の部分である(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060329)。第二点は、翻訳での和訳と内容理解のための日本語の活用とを峻別することは難しいということである。
全英連を契機に一気に全国に普及したかに見える「和訳先渡し」であるが、本家ほど緻密かつ柔軟に取り組んでいる学校・教師はそれ程多くないようである。本家は「和訳」や「訳読」を否定しているわけではないのに、followersの方は傾向として安易な「和訳批判」に陥りやすい。そういうのはエピゴーネンというべきだろう。一方、現在の実践で既に「量」を確保できている、英語の単位数の多い私学や英語科・国際科などの学校では「和訳先渡し」で更なる量を稼ぐより、高2までは今のやり方で進めていき、高3で国公立個別試験型入試問題でゴリゴリと文構造や語彙・品詞を徹底した方が英語力の伸びに貢献するかもしれない。時間は十分にあるのだから高2までの英語I, 英語IIは訳読、高3のReadingは和訳先渡しで1学期で教科書を終えるというオプションも考えられる。はじめから最後までたくさん与えてたくさん無駄にしていないかという振り返りにも意味はあるのだ。
和訳批判はたやすいと思われているのか、「和訳先渡し」や「多読ブーム」、「ハト感ブーム」に便乗したのか最近結構元気のよい批判が目につく。和訳批判の論拠として、和訳に依存した内容理解というものがある。では彼らがそれに取って代わる認知のプロセスとして何を概念としてあげているかというと、「イメージ」や「フィーリング」である。
We have two dogs at home.という英文を見て、dogを「犬」といちいち日本語に訳すのではなく、単語からすぐにdogのイメージを思い浮かべて内容を理解するのが望ましいと言うのだ。ではそういう人は、次の英文からどのようなイメージを持つのであろうか?

  • Blackbirds are singing in the dead of night.
  • A bus is standing at the bus stop.
  • My father has a receding hairline.
  • Dorothy pulled a long face at the news.
  • Children are throwing snowballs at each other in the playground.
  • 文化差があり翻訳では実感がわからない生物
  • 動詞の意味特性と相
  • 動詞の意味特性と分詞
  • イディオム
  • 名詞の数と進行相

学習者は学びの発達段階のどこでこのような英語の特徴を自動化してくることを想定しているのか、中学高校のシラバスは答える義務があるのではないだろうか。その意味では日本語を使ってでも教えて済むことなら教えてしまえばよい。安易な和訳批判は自分の底が浅いことを露呈してしまうので注意が必要だ。

本家が主張していることは「和訳することで授業や授業の準備に多くの時間を費やしていて、今までやりたくてもできなかった英語授業で行うべき活動」なのであるから、その新たに提示された活動の中身こそを批判しなければ、この「和訳先渡し」を批判したことにはならないのである。結局問われているのは英語の「授業」でありそこで育て・鍛える「ことば」なのである。
「和訳先渡し授業」の先にあるものがちゃんと見えているなら跳べばいい。