『教科書』はどこへ行った?

英語再入門、やり直し組の大学生や社会人を対象とした英語学習のセミナーが大にぎわいの昨今。書店の語学コーナーに行っても、その手の「英語本」がこれでもか、というくらいに毎月出版されている。ただ、そのクオリティもまちまちであり、この出版社なら、この著者なら大丈夫、というような選び方が難しくなってきたように思う。良心的な学術書や翻訳書を出版している松柏社などでも、「これを出版するの?」というようなものが散見される。また、以前なら、研究社、朝日出版社などが主として出していた月刊の英語学習雑誌の分野にも、今ではアルクなど語学に特化した出版社に加え中経出版などのビジネス系の出版社が目立つようになり、日本にいながらにして英語の教材には事欠かないのではないかと思う今日この頃である。その反面、きちんとした、骨太の「教科書」「教則本」「文法書」が最近ほとんど出ていないことを、どのくらいの「英語教育関係者」は指摘してきただろうか。
私が専門とするライティング、昔で言えば英作文の分野でも、「教科書」として使用に耐えうるような系統だった市販教材は『和文英訳の修業』(文建書房)、『松本亨英作全集』、『書く英語』(英友社)、など何世代も前に出版されたもの、そして『基礎と演習英作文 チャート式シリーズ』(数研出版)など極一部の学習参考書くらいなものである。何をもって系統だったというのかは難しいが、単なる続刊で2,3冊になるのではなく、初めから全体像があるもの。目次がきちんとシラバスを表していること。索引がしっかりしていて、情報のクロスレファレンスが可能なこと。などは一応の目安となるだろうか?
 「教科書」が貧弱になったのは、何も英語だけではない。国語(現代文)や古文にしたところで、全体の点数では英語に劣るものの、骨太の教材は影を潜めている点では同様の状況であり、書店の高校生向け学習参考書のコーナーに行けばギミック満載の予備校系学参の見本市かのような様相を呈している。
 学びの質的変化といえばそれまでだが、一人の教師、ひとつの教材で、腰を落ち着け、じっくりと向き合い、膝突き合わせて課題と格闘し学んでいくといった知的活動が成立しにくい時代となったのだと思う。これは、学習における「勝ち組」と思しき者にも当てはまるので深刻である。小学校のお受験に始まり、教師が気に入らなければクラスを変更したり、教師を替えさせたり、塾そのものを替えたりしてきた学習者が、「自分が分からないのはきっと教材が悪いからで、なにかもっといい教材があるはずだ」、「この先生の教え方が悪いからで、もっといい先生に習っていれば…」、「きっともっと効率のいい学習法があるはず」という思考パターンから抜け出すのは容易ではないだろう。
 「英語本」と「ダイエット本」の共通性を指摘したのはマーク・ピーターセン氏と聞いたことがある。肥満を防ぎ、健康な食生活を維持するには、「生活そのもの」の改善を要求されるので、世間で言う「ダイエット」はそうそう上手く行くものではないという点、また、ある方法を試しても、その方法でとことん突き進むのではなく、すぐに「他にもっといい方法がないか」と揺れ動いてしまう点などでは確かに似ているだろう。似てはいるが、「ダイエット」では、実際の減量に要した期間や、実際に減じた体重など数値が明確に把握できるのに対して、「英語が身についた」というのにどのくらいの段階があるのか、それぞれの段階の達成の目安とはどんなことなのか?というもっとも基本的なことで世間も専門家も全く合意形成ができていないところが問題である。いきおい、英検の級、TOEICやTOEFLのスコアに一喜一憂ということになるのだろう。
 腰を落ち着け、じっくりと、ひたむきに、とことんやり抜く、自立した学習方法を身につけるためには、中学、高校でしっかりと「学び」と取り組ませる必要があるだろう。個人的には、「語学はそう簡単には身につかない」から「それ相応の時間とエネルギーの投入が必要」であることを悟らせ、「上手く行かなくてもあきらめずねばり強く前向きに取り組む」姿勢を奨励し、「小さな進歩を大きく喜ぶ」。ただ楽しい活動を提供するだけではなく、「より高い次元での楽しみ」を感じる手助けをする。そういう授業を展開し続けたい。
 骨太の学び、骨太の授業に堪えうる、骨太の「教科書」が市場を席巻する日がくることを切に願う。