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R.ダールの『チャーリーとチョコレート工場の秘密』が大人気とのこと。ジョニー・ディップ主演、ティム・バートン監督の映画の公開で拍車がかかったようだ。それと並行して、話題になっていることがある。翻訳本である。評論社から以前出ていたのは田村順一氏による翻訳で、広く親しまれてきた。今回の新訳は柳瀬尚紀氏。ジョイス研究で知られる英文学者である。アマゾンのカスタマーレビューでは、この手の本としては異例のレビュアー数ではないだろうか?議論(?)の趨勢としては新訳批判が圧倒的に多い。ただし、評論社が旧訳を絶版にしているので、一般の方は、過去の自分の記憶と新訳とを比べているのだろうと思う。私も手元に旧訳がないので、正確な比較のために今度借りてこようと思っている。
柳瀬氏といえば、言葉遊びも含めて「訳語」にとことんこだわる訳者として知られている。G.OrwellのAnimal Farm に出てくる単語 popholeは(一般の英和辞典に収録されていないが)大修館の『ジーニアス大英和』には収録されている、などということを書いていて、さすがに英文学者にして翻訳家、細かい人だなとは誰もが思うだろう。ただ柳瀬氏は「ところで pophole の訳語をどなたか考え出してくれませんか。「ひょいと出入り pop- 穴 hole」だから「ひょい穴」、これを一工夫すれば大英和に採用されるかもしれません。」というところまで進む人なのだ。
以前、国語学者の山田俊男氏との『ぶっくれっと』(三省堂)での対談が単行本になっていた(『言葉談義寐ても寤ても』(岩波書店から発行されている))が、当時から気になっていたことがある。単行本の第6回のタイトルにもなっている「人の褌で相撲を取る」をどう英訳するか?という内容である。
柳瀬氏は(to) rob Peter to pay Paulを当てているのだが、これは本当に適訳だろうか?この回のタイトルになっているので重要な問題だと思う。柳瀬氏は、斎藤秀三郎の和英で見たのだという。確かに、『斎藤大和英』にも、研究社の『新和英大辞典』にもそのように例があげられている。しかしながら、広辞苑や大辞林や日本国語大辞典などの国語辞典にこの言葉の詳細な定義解説がないのではっきりと比較対照が出来ない。手元の『新明解』(三省堂)では「他人のものをうまく借用したりそのやる事に便乗したりして、自分の利益を図る」とある。一方英語の方はというと、『ロングマン英語イディオム辞典』(研究社)では、PETERの項目に、「一方から奪って[借りて]他方に渡す[返す]。借金を返すのに別の借金をする(ことで何の利益にもならない[意味もない])、一つの問題を片付けようとして別の問題を背負い込む」とある。これを同じ文脈で用いることがあるだろうか?
翻訳者は反逆者とはよく言われる言葉だが、本当に責任の重い仕事である。齢を重ねて尚自らの翻訳に朱を入れ続ける翻訳者の心理が少しだけ分かる気がする。
学生時代、柳父章(やなぶあきら)と楳垣実(うめがきみのる)の著作は必ず読んでおけ、といわれてその当時はよく分からずに読んで感心したことだけを覚えている。言葉を説明、解説しようとすることは難しいのだ。
その難しさが教師にはよくわからず、生徒にも解説してしまう。性(さが)だろうか?性分(しょうぶん)だろうか?
『英語教育』(大修館書店)、2005年12月号の「英語教育時評」の欄で、関西大学の靜哲人氏が、限定的、局所的な英語第二公用語論を提案していた。日本人全体を対象に英語を公用語にすることはできないだろうが、英語教師は英語の運用力が母語に比べて著しく劣ってはならない、と主張する靜氏は、この冬行われるELEC(協議会の方ですよ)の日本人教員を対象とした研修でも「使用言語を英語とする」、と明記している。詳しくは、雑誌の方を読んでもらいたいが、「マッチョ」だなと感じた。『英語教育』の雑誌は結構なページ数だが、特集記事、連載、寄稿・投稿などのうち、英語で書かれているものの比率はどれくらいだろうか?また、英語母語話者の執筆者はどのくらいいるだろうか?日本で英語教育界の話題を集約している雑誌で、そういう状況なのである。日本語を使って知識だけを吸収して頭でっかちになっても意味がない、という趣旨のことを靜氏は言っているのだが、自分が指導評価で何をやっているのか、何をすべきなのか、を全て英語で説明したり論じたりすることは、日常生活をある言語で過ごす「公用語」としてのthreshold levelを遙かに超えているのではないか?まず、「英語教育時評」のリレー執筆者に、英語母語話者を入れ、その人の英語による原稿を入れる。また、毎月の特集記事の最低一つは英語で執筆するというところから始めませんか?英語教師たるもの英語を使うべきところでいちいち日本語の補助輪に頼っていてどうする、とお叱りを受けるだろうか?そんなその場凌ぎの便法では、問題は解決しない、と一喝されるだろうか?
ただ、そうでもしないと、「わからない言葉は聞き流すが、その部分を理解の欠落とは感じない」人を増やすことになるのではないか、という危惧が拭えない。今日のブログは後半、固有名詞などの漢字に読み仮名を併記したものを意図的に盛り込んだが、煩わしかっただろうか?虫食いで読み進まれるよりは、書き手として安心なのだが…。
ということで、今日紹介した岩波書店の『言葉談義寐ても寤ても』はなんと読むのでしょうか?