「よりよい自己」 vs. 「よりよい表現」

『「自己表現活動」を取り入れた英語授業』(田中武夫・田中千聡 著、大修館書店)を批判的に読んでいる。2003年刊のこの本の反響なのか、それとも英語教育界の主流を表すものとしてこの本が登場したのか、最近「自己表現活動」は多くの、いわゆるコミュニカティブな授業実践でのbuzz wordとなっている印象を受ける。私自身の実践を振り返ると、数年前(1995年から1998年くらい)までは、自己表現という用語をキーワードとしてきたように思うが、近年は「自己表現」という言葉が何を表しているのか、に対して懐疑的というか猜疑的というか、肯定的評価ばかりはしていない(buzz wordという言葉遣いでも分かろうというものである)
『…を取り入れた英語授業』を読んで、「良質の実践記録」である、という感想を持ったり、「授業立案における着眼点」のヒントを得ることは確かであろう。ただ、やはり、タイトルにあるように「英語授業」を考える(または考え直す)本なのである。『英語授業を変える「自己表現活動」』ではないのである。この本を読んで、「よーし、自分の授業を見直そう」という反応と、「よーし、自己表現活動をやろう」という反応と、後者の方が多くなるとするならば、その趨勢には少し待ったをかけたいと思う。
問題点は、第1章 3節の「自己表現活動の教育的意義」(pp.16-21)、第5章 1節の「自己表現を評価する前に」(pp.214-221)、さらには3節の「具体的に評価する」(pp.228-233)に集約されるかと思う。自己表現を自己目的化してしまうことの危うさがここに露呈している。
「自己表現を英語授業に取り入れる第一の教育的意義は、生徒と本当の意味でのコミュニケーションを取ることができる点」にある(p.17)、という中の「本当の意味でのコミュニケーション」を求めるのが近年の英語教師に普遍的な感覚なのだろうか。「生徒理解につながる」「生徒指導につながる」「教師自身も個性を発揮できる」などというのは全て副産物だろう。英語授業における表現活動の目的は「表現」の質を高めること、つまりは英語力を伸ばすことではないのか?例えば、いわゆる「自己表現活動」を重視した活動は、その多くを「書くこと」に依存している。しかしながら、実践を発表している多くの英語教師が writingそのものに関して、系統的な学習や実践を行っていないことを告白していたりすることにはいつも不満を感じていた(ここでは「教師自身が competent writerでない」と言っているわけではないので言葉尻をとらえた批判はご容赦願いたい)。
何を評価するのか、という評価の対象、構成概念に関しても、Canaleや Savignonを引き合いにだして、「文法能力」「談話能力」「社会的言語能力」「方略能力」を示しているが、ここにあげられている能力を評価する時に行っている活動やテストで産出された英語表現の何がどのように評価されるのかは、まったく明らかにされていないのである。「個性」「自分らしさ」を評価項目に入れ、動機付けに役立てようというのは理解できるが、扱いは慎重にしなければ、教育的に「も」問題が残ることになる。
自己表現の一例としてあげられている(p.55)、
I think Doraemon is more popular than Anpanman because it's cute.
というような英文を教室で交わすことは教育的意義が高いのだろうか?
自分が著者をしている高等学校の「ライティング」の教科書の教師用指導書に次のように書いた。いわゆる「自己表現活動」を授業に取り入れる前に読んでおいて欲しいことである。

「この課では、都会暮らしと田舎暮らしの比較をして、その理由付けを行うタスクを課す。生徒の理由付けは得てして、都会派は「時間効率・労力の観点からの利便性」「流行と多様性」「テクノロジーの進歩」などの要因を、一方、田舎派は「自然」「ストレスのなさ」「癒し」などの要因を挙げるという表面的な理由付けにとどまることが多い。On Your Ownでの最終タスクも、「どちらが好きか?」という、極めて主観的な問いであるので、厳密なロジックでのサポートを要求するのではなく、理由付けをすることが大切なのだという意識を高めることを主眼としたい。」
「中学校での自己表現指導や高校でのオーラルコミュニケーションでの指導で、becauseで理由付けをすることのできる高校生が増えてきている。しかしながら、高校生に多く見られる理由付けの問題点を指摘しておく。一番の問題点は、なぜそれが主張で示したことがらの理由となるのか、という読み手との共通基盤を示さないために議論が平行線で終わること。もう一つは、理由として述べていることが、主張の言い換えとなってしまっていることが多い。誰でも、I like living in big cities because big cities are big.という英文を読めばおかしいと思うだろうが、I like living in big cities because living in big cities is enjoyable [fun].という英文で生徒が発表した場合に、修正をせずにそのままにしてしまうことが多い。I like living in big cities better than the countryside. Living in cities is enjoyable because it gives us a variety of amusement. などとサポートしてはじめて理由付けとなる。」(以上、Lesson 23 都会 vs. 田舎)
「この課題で気をつけなければならない点は、「動物愛護」の「愛」の部分に特化した英文を生徒が書いてくる際にどの程度ケアをするかということだろう。Word Garden にすでに与えられている形容詞群は cute / smart / friendly / loving / loyal / cleanなど、主観的なもの、または好悪の感情に基づくものが多い。Be nice.の根拠としてこれらの形容詞を述べる場合には、裏を返せば、cuteでなければひどい仕打ちをしてもかまわない、という論理につながりかねない。この観点さえ十分に押さえておけば、 Be nice to cheetah! They are the fastest animals in the world. というような生徒の解答でのfastという形容詞はそれほど目くじらを立てる必要はないだろう。cheetahをcheetahsに訂正する程度で十分である。」(Lesson24 動物にやさしく)

『…英語授業』では、「表現」を生む源となるpromptに関する提言もある。第3章3節「感受性を高める」では、「インパクトのある資料を提示する」として、写真の例を挙げている(pp.108-109)が、このようなインパクトのある写真を教材とすることの脆弱性に関しては、Susan Sontag (2003年),『他者の苦痛へのまなざし』(みすず書房;原題は "Regarding the Pain of Others"。私の持っているのは Picador版のペーパーバックです)などでも既に指摘されている、写真論・映像論にも通じるので、一読を勧める。
多くの実践者は言語表現にとことんこだわった指導のあとに、「自己表現活動」のさじ加減を会得しているはずである。若い教師が表面的な理解で取り入れ、やけどをしないか、さらにはやけどをしたあとに、「羮に…」とならないか不安は募る。