「英語ができる」日本人とは?

現在の勤務校には、1/3から1/4くらいの割合で、いわゆる帰国子女の生徒がいる。高2、高3は習熟度クラスで編成されているので、いきおい、上のクラスは帰国子女ばかりといった印象を受ける。では、彼らの英語力は?というと、発話の音声、淀みのなさという点では、非帰国子女(いわゆる『純ジャパ』)に勝っているが、summarizeやwritingなどをさせると、意外なほど基礎的な文構造に欠点を持っていたり、articulationがぞんざいで、public speaking用に、自分の発話をコントロール出来なかったりと、シラバスを作ってそのシラバスに基づく評価をしようとすると、かならずしも満点がつけられないものも多い。しかしながら、他の生徒よりは英語そのものに触れている時間・経験が長いため、自由に喋らせたり、書かせたりするタスクを与えると、それなりの英語のproductionをする。そうすると、問題となるのは、授業は聞いていないのに、その問題には答えられるというジレンマである。平常での提出物など、授業中の活動に集中しなければならないような課題をできるだけ取り入れ、『まじめに頑張る純ジャパ』にも、自分の英語力で活躍する余地を残しておくのが大変である。
このような状況でふと考えたのは、学ぶ方だけでなく、教える方、つまり英語教師の方の英語力である。
近年、TOEICやTOEFLスコアなどが教員採用の一部に含まれたりしていて、教員の英語力が上がっていると一般には思われているが、そのような試験で高得点を収めている英語教員のほとんどが、帰国子女や留学経験者であるという傾向をどう評価するか?
「帰国子女で英語が堪能な教員が、帰国子女で英語に慣れている生徒を相手に、英語を駆使した授業をする。」という構図が日本全国で『モデル』として想定されていないだろうか?
「日本にいながらにして、苦労して英語を身につけた英語教師が、英語になかなか慣れない生徒に何とか英語を使わせつつ、地道に英語を覚えさせて英語力を高める。」というような授業がどのくらい推奨されているだろうか?日本語が母語であり、EFL環境の英語学習者がどんなことに苦労し、躓き、それを乗り越えるためにどのような工夫をすればよいのか、といったロールモデルとして、本当の意味で機能する英語教師はどの程度いるのだろうか?
『英語ができる日本人』が戦略構想だのなんだのと、かまびすしい取り上げられかたをしているが、純ジャパの私でも、TOEICは初受験でも965点くらいとれるわけである。英語の基礎基本ができていればスコアなどすぐに上がる。ただ、その基礎基本を、EFL環境で身につけるのは並大抵の努力ではできない。さらにはネイティブスピーカの英語力を目指すことが英語教育の目標ではない。TOEICのスコアがいくら高くても、teacher talkや foreigner talkなど自分の発話をコントロール出来ない英語教師がいくら英語を使って授業をしたところで、学習者にとっては飽和した英語のexposureが増えるにすぎないのである。
ノンネイティブの英語教師にしかできないことを自覚したい。華々しいパフォーマンス志向の英語教育を徒に持ち上げるのではなく、泥にまみれた、地道なbottom upのプロセスの指導方法を共有することこそ今本当に必要なことではないのか?「英語ができる」というのはそう簡単なことではないのである。
文科省はSELHiなどで雰囲気を煽るだけでなく、地道で一般的な努力をすれば、どのような英語力が身につくのか、モデルをきちんと示すべきである。「達人」英語教師によって達成される、「理想的」かつ「例外的」な事例をとりあげ賞賛する教育実践はそろそろやめにしてはどうか?そうすれば、幻想から現実へと世論も目線が変わるだろう。英国がナショナルカリキュラム編成後、悪名高きインスペクションを実施したが、唯一評価出来るのは、外国語教育は体育・音楽・芸術などの実技系科目とくらべて、著しく達成度が低い、ということを実証したことである。(しかしながら、日本の英語教育雑誌などでそういう情報が公開されることはないのである。)「できないのがあたりまえ」というところからスタートすれば、もう少し、健康的な議論が生まれ、世論も成熟するのではないか。