ストラテジー改善指導の功罪

『英語教育』2004年10月号(大修館書店)に「学習ストラテジー」の特集があった。その中の記事
「学習ストラテジー指導は5段階アプローチで」(明治大学教授 尾関直子)が以下のサイトに再録されている。

http://www.eigokyoikunews.com/eigokyoiku/essay/200410/page2.shtml

困ったモノだなあ、と言うのが正直な実感。応用言語学としての学習ストラテジーの研究成果は否定しません。さらに、若い人に限らず、語学教師は誰もが一度は「学習ストラテジー指導の改善」という魔法に取り憑かれるのだろうとも思う。私もかつてはそうだったから。彼女の拠り所としているのは、Chamotらの提唱する、「学習ストラテジーの指導手順は、「準備段階(preparation)」、「提示段階(presentation)」、「練習段階(practice)」、「評価段階(evaluation)」、「応用段階(expansion)」という5つの段階で成り立っています」(Chamot, Barnhardt, El-Dinary, & Robbins, 1999)と言う考え方。それ自体は結構でしょう。でも、次のような指導が高校でのライティング指導で用いられるということには首肯しがたい。

「(2) 提示段階(presentation):
1.「いじめをなくすために、自分は何ができるか」について作文を書くことを告げます。ここで、「背景知識を活性化させる」というストラテジーを紹介します。
“You are going to write an essay about what you can do to stop bullying as high school students. First, we are going to learn the activate background knowledge strategy. Activating your background knowledge means using information you already know about a topic. Thinking about what you already know helps you get ready for writing.”」(中略)
「(3) 練習段階(practice):
1.いじめをなくすために、自分は何ができると思うかを生徒に聞きます。または、それについて、生徒同士で話し合いをさせるのもよいでしょう。
“What will you do if you see a friend of yours bullying?”
“What will you do if you see a friend of yours being bullied?”」(引用終わり)

批判のための批判ではないことをお断りしておく。L2しかも、外国語としてのTopical knowledgeは lexical knowledgeに依存しているのである。「いじめに関して何かを語るための語彙、キーワードをすくなくともフレーズ単位(「チャンク」と言っても良いだろう)の英語で持っている」ことがこの活動の前提にあるのだが、その部分をどう解決しようというのだろう?40人のクラスで、4,5人のある程度英語ができる生徒から、ぽつぽつとキーワードが出たとして、それを文の形へと広げていく活動はどう保証するのだろう?トピックセンテンスやトピックステイトメントを1文できちんと書くことがどれほど難しいか分かっているのだろうか?「背景的知識」などは日本語でなら持っているのである。それを英語でなんといえばよいか分からないから、日本語からの類推で単語のみの「和英辞典の引き写し」を繰り返し、つぎはぎだらけの英文をこしらえ、書かせた後の添削の労苦が増えるという悪循環を生む。必要なのは、背景知識の活性化などではなく、target languageでのlexical knowledgeの構築・整備である。教師の体験を一つのエピソードとして話すだけでなく、トピック・主題に関連したListening materialやreading materialを用意して、内容理解のあと、語彙を確認し、自分の考えに近いものをグループ分けするとか、前年度の生徒に書かせた作文から、トピックセンテンスだけを10例ほど提示するとか、「scaffolding(足場かけ)」などと用語だけとりあげるのではなく、「地に足のついた」実践をこそ、紹介すべきだろう。
 意見を書かせる、考えを書かせるという、いわゆる「自己表現活動」推進者にも、このタイプのpre-writing活動は多く見られるのだが、主立ったトピックセンテンスを全員で確認しておき、理由付けなどのバリエーションにある程度のコントロールをかけなければ、その後、クラスで内容をシェア出来ないだろう。「自己表現」といいつつ、お互いにシェアできないようなモノを書かせたところで、いったいどんな「自己」が表現されうるのか疑問である。
話は少し変わるが、本質的には同じくらい重要なことであるので、筆の勢いで。
先日も研究室で高校生が担当の先生に定期試験の出題で文句を言っていた。「先生、あの問題じゃあ、丸暗記すれば点が取れちゃうじゃないですか。」この生徒は、丸暗記という学習方法は低級で、そうではない高級な学習法を用いている自分の英語力を試してくれ、とでもいっているつもりなのだろう。「百歩譲って丸暗記が低級な学習方法だとしましょう。では、なぜもっと高級な学習方法を用いているあなたにとって、低級な方法である丸暗記は簡単な方法ではないのですか?」と親切に言ってあげる先生はいないのだろうか?暗記する価値のあるような文章を授業で扱っていさえすれば、丸暗記で良いじゃないですか。私立高校で教えるようになって、丸暗記を罪悪視する生徒によくお会いするのだが、丸暗記ができる生徒から、苦情を聴くことは少ないのです。「先生、これ全部覚えるんですか?」「覚えたらテスト出来ますか?」訊く生徒が結構いるので,「覚えろっていったら全部覚えられる?じゃあ、全部覚えて。」と答えています。「全部覚えたら全部出る?」と訊くような人には「それはどうかな?」と答えるようにしています。」結局、丸暗記が面倒で、嫌いなだけなのでしょう。丸暗記が得意だと思っている生徒でも、覚えるべき対象が相当に制限されていないと完全に再生出来ないし、テストで解答すべき問題数が増えれば当然難易度はあがるのです。語彙力や文法力の乏しい初学者には、記憶のメカニズムを踏まえた、より良い記憶方法を身につけさせることの方がよほど有り難いのではないでしょうか?
ストラテジー改善指導よりも先にやるべきことはたくさんあると思いませんか?