すみませんですむなら…。

SNS の普及により、悲しい知らせが瞬時にして伝わり、その知らせを受けた人達の悲しみも次々と舞い込んでくる、そんな一週間。

卒業式からは、おおよそ二週間。
国公立の後期入試に臨んだ者、私立大の3月入試に臨んだ者も数名。合否がわかるのはさらに数日後なので気もそぞろだろうけれど、やり切ったのであれば泰然と、そうでなければ捲土重来。陳腐な物言いですが。

Scott Thornbury がこんな呟きをしていました。

"Let us get away from this Teach, Teach, Teach! Let it be Learn, Learn, Learn!" Michael West 1967.
https://twitter.com/thornburyscott/status/709052531943608320

志望校に合格、進学しても、第一志望ではない学校へと進学しても、学びは続きます。それが真の学びであれば…。


国立大学の後期入試から、気になった出題を取り上げておきます。

九州大学の英語・英作文。
読解問題の中に、英文を書いて本文を補充完成させる出題も見られましたが、大問として「和文英訳」が課されています。

九州大16後期.png 直

出典は『朝日新聞』の「ことばの食感」というコラムから「すみませんですませる」。
2015年8月8日のもののようです。筆者は、中村明・早稲田大学名誉教授。
まだ、こちらでも読めるのかしら?

朝日デジタル
http://www.asahi.com/articles/DA3S11901505.html

全文は、こういったところで読んでもらうとして、下線部が施されている箇所は2つ。

(1) 遅れて相手に迷惑をかけたのは事実で、それは自分のせいなのだから、まず謝る。

(2) 従来の日本人はことばというものに全幅の信頼を寄せず、ことばにしない部分、心の奥にあっていわく言いがたいものを大事にしてきた。

中村氏のいう「これは国民性の違いである。」という部分に関しては、寺沢拓敬先生にでも突っ込んでもらうとして、私が気になったのは、下線部2の施し方。

原文では、この (2) の直前に「とかく」ということばがあるのです。当て方から言えば「兎角」「左右」で用いられていることでもお分かりのように、

事の大小を問わず全般的にそのような傾向が認められる様子。(『新明解国語辞典』第七版、三省堂、2011年)

そのようになりやすいさま。ともすると。ややもすると。(『明鏡国語辞典』第2版、大修館書店、2012年)

など、筆者が断言や積極的な支持・賛意を避けているような「雰囲気」「気配」「モダリティー」を表わしたい時に、「とかく」使われる表現ではないかと思います。

とかく「与えられた日本文の意味をよく咀嚼して、中学レベルの英語で書けるように、日本語を言い換えることで、誤りなく書くことが大切」などというストラテジーで語られがちな「入試和文英訳」ですが、その「とかく」を外して、その筆者の「モダリティー」を無視してしまうと、この文章全体の「主題」も「トーン」も失われてしまうのではないでしょうか。
この「中村明」氏のコラムを選んで出題した意図は何だったのか、そこが気になった次第。



前期日程での出題で話題となった神戸大は、後期ではグラフに基づく設問。

神戸大16後期.png 直

2014年度入試で私が取り上げた「グラフ」を使った出題へと「形式上は」戻ったことになりますが、その中身は随分と異なります。この2016年後期の出題では、グラフの中から指定された条件に適ったものを一つ選んで、その理由となる背景を考えて説明するものです。

とかく、出題形式にばかり注目が集まりがちですが、2011年前期出題のグラフの問題では、「グラフ全体の説明として、序論を述べること」が求められていたのに対して、2014年前期では、グラフに加えて、その説明の「英文」が与えられ、「グラフの内容に基づき、与えられた英文に続いての最終段落をまとめること」が求められていました。2014年の出題では「英文」が与えられていることで、解答する英語の語彙選択や構文など、ある程度の幅に収まることを要求するはずですので、英語力・ライティング力として求められている力にも違いがあるのが「建前」でしょう。

個人的には、今年の前期に出題した「野心的」な設問よりは、この後期の出題の方が、そして、この後期の出題よりも、2014年前期タイプの「英文を与えておき、補充完成させる」設問の方が、高校生の英語力、ライティング力を診るには適していると思います。

詳しくは過去ログを参照願います。

「私の入試改革論」
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20140228

ということで、国立大の後期の出題で気になったところを述べてみました。
前期ほどには騒がれない後期入試での出題内容ですが、「新課程一期生」の臨む入試という点では同じですので、「変化の有無」「変化の質」「変化の幅」など、検討・検証すべきことはたくさんあるはずです。
「高大接続改革」「大学入試改革」と大風呂敷を拡げるのも結構なのですが、まずは、日本の英語教育学会で、きちんと扱うべきことがらだと思っています。
きちんと扱ってくれるのであれば、「有識者」の皆さんでも構いませんけれど。



過去ログで執拗に追っていた「平成26年度高3英語力フィージビリティ調査」について、補足というか、ある情報を「捕捉」してしまったので、問題提起と備忘録を兼ねて書いておきます。

以下の記事で「26年度高3英語力調査結果」が独り歩きしていることがわかると思います。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20150326
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20150528
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20150620
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20151117

こちらの資料を見ると、平成27年1月27日時点では、「文科省」では、測定する英語力のレンジ(難易度)はまだ「CEFRのA2〜B2」だとしていたことがわかります。(文科省の英語教育関連資料は、直ぐに更新されてしまうかもしれないので、最初に出たものを逐一保存しておいたほうがいいと思います。)

外部試験特需.png 直
調査結果公表前.png 直
じゃんけん前.png 直
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/106/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/03/25/1356067_04.pdf

このまま年度末に発表できなかったのはなぜなのでしょうか?そして、5月になって報告書が出た際には「A1〜B2」に変わった訳は?「書くこと」の調査結果があまりにも悲惨なものだったから?

昨年 (2016年) の5月末、結果が公表されて直ぐに私は指摘していたのですが、メディアはその時も、その後も何も検証していません。
しかも、この時はまだ「A1〜B2」だったんですよ。

2015年5月26日「報告書」.png 直

過去ログは、
The bottom line is ...
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20150528

この「A1〜」と下限を引き下げたことも、「後出しじゃんけん」が過ぎると思うのですが、そんなのはまだ序の口でした。

次の扱いを「酷い」と言わずに、どのような形容をすればいいでしょうか?
「フィージビリティ調査」の結果をもとに「フィージビリティを検証する」のではなく、調査の基礎デザインそのものを「A1〜B1」と丸ごと下にずらして、政策立案に使おうとしているかのようです。評価のスキームはそのまま使い回しなのに、です。粉飾決算ですか?


書くA1-B1.png 直
書く26年度報告書抜粋.png 直
話すA1-B1.png 直

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/033/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/12/22/1365554_06_1.pdf

文科省の関係者やこの改革を推進している「部会」の関係者は、「調査のデザインは『問題の難易度をA2〜B2』としていただけであって、その調査の『対象者である高3生の英語力はA1〜B1』として作成していたのであるから、齟齬はないのです」とか言いそうで怖いです。

もしそうだとして、では、なぜA1 レベルの高校生を対象にしてA2レベルのテストを課したり、B1 レベルの高校生を対象にB2 レベルのテストを課すのか?説明できますか?

テストを作った時には、日本の高3生はA2 〜 B2 くらいの分布かな、と思っていたけれど、実際にやってみたら、B2 の生徒は殆どいなかったので、上位はB1くらいが妥当かな、でも下は困ったな、A1 のレベルだと言いたくても、そもそも圧倒的に0 点が多かったので、Aゼロという訳にもいかないし…。やっぱり、テスト設計の段階で、もう少し「有識者」の声を反映させて実態に即した調査をしておくべきでした。

というように、「フィージビリティ調査」のフィージビリティを検証している「弁明」がなされるならまだいいのですけれど、恐らくそんな日はこないのでしょうね。
恐ろしいことです。


本日のBGM: Tomorrow Never Knows (The Beatles)