The Teen-Ager’s Dream

tmrowing2014-10-16

中間テスト真っ只中。
本業の長崎国体が18日から開催。ボート競技の場合は、「配艇練習」といって、主催者が用意した艇を割り当てて、試合前の練習をする慣行。選手団は一足先に配艇練習へ。私もまもなく現地入りです。
いろいろあって、中間テストの前に開催された、地元での大きなイベントについて書いていませんでした。
県の中英研主催の「英語弁論大会」です。
この県大会が、所謂「高円宮杯」の県予選となっています。昨年に続いて、今年も審査員、ジャッジとして呼ばれました。

昨年の様子はこちらの過去ログを参照されたし。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20131012

今年は、私と英国出身の私学の英語ネイティブ講師の方が昨年からの継続。新たに、カナダ出身の英語ネイティブの方と、県の指導主事の方が加わり、4名体制の審査となりました。中英研の会長さん、担当者の方から、

  • 今年は「審査員長」をお願いします。

ということで、責任重大。
弁論の部23名、暗唱の部9名の審査を無事終えてきました。他の都道府県に比べると出場者数は少ないのかもしれませんが、朝から一日がかり。集中力を保ち、審査基準を安定させるのはベテランの先生でも大変だと思います。当然のことながら私も大変でした。最初の5人を終えたところで、評価のすり合わせのintermission。更に10名を終えたところで、再度のintermission。全員を終えて、各ジャッジの審査結果を合計し、入賞者、県代表者を決定しました。
意見が分かれるところは、ディスカッションです。双方の言い分を聞いた上でvoteしたり、tie-breakerとして、審査員長の決裁だったり、と神経を使いながらも、全員が納得の上で最終結果を得ました。このようなやりとりのほぼ全てが英語でなされるわけですが、英語ネイティブも含め、英語ができる、英語が分かる人の中でも、同じ得点で異なる意味付けがなされていて面白いものだなと思いました。面白がってばかりはいられませんが、評価に関わる悩みは簡単には解決しないものなのでしょう。ここでも「よりマシ」です。

昨年は何よりも「音声」が気になった弁論の部でしたが、今年は「構成」が気になりました。私が昨年の審査を担当したことで「経験知」を積んだからかもしれませんが、スピーチの「構成」である顕著な「型」が見て取れました。
特定の個人をここであげるわけにはいかないので、私の気付きを一般化したものを記しておきます。一番気になったのは、次のような「構成」を持ったスピーチです。

Opening: 聴衆への呼びかけ。疑問文。肯定の答えで引き受けて、自分の主題へと導く。
Episode: 個人的な体験を語る。ここからは、ナラティブで進んでいく。まさに「物語」。
Lesson: その個人的体験からの「教訓」をまとめる。
Declaration: 自分の「夢」「目標」「豊富」「チャレンジ」を高らかに謳い始める。
Closing: 自分の declarationがいかに、「タイトル」に関連しているかを補足説明して終了。

「ライティング」とは違って、目の前に「聴衆・観衆」がいるスピーチですから、反応を見て臨機応変に話を調整することは無理にしても、”hook” を入れて、一方的な、独善的な「語り」にならないような工夫が必要であることは重々わかっています。
私が気になったのは、”declaration” と私が名付けた、終盤に来ての「宣言」「意思表明」にあたる内容です。「夢を語るな」とは言いませんが、「語るべき場」は「その終盤」じゃないでしょ?
この終盤まで引っ張ってきて、エピソードと教訓とがまさに結晶化されたような展開や構成、レトリックで「語られた」、お手本のスピーチや、テンプレートが何かあるのかもしれませんが、全体を5〜7段落くらいの構成にしている場合に、最後から2つ目とか、最終段落で ”declaration” を唱えられても、聴衆は困るだけだと思います。
スピーチの草稿指導の問題と言えるのかもしれませんが、実際に、中学校の先生が指導しているのか、英会話学校、英語塾など、公教育以外の指導者が関わっているのか、背景は様々でしょう。ただ、どの場合でも、原稿を英語のよくできる「誰か」に見てもらう時には、自分の一番言いたいこと、伝えたいことの「種」というか「肝」というか、その部分をしっかりと聞いてもらい、「よりマシ」になるような取り上げ方をしてもらうべきだと思うのです。スピーチをする側も、指導する側も「良いスピーチとはこういうものだ」という思い込みが強すぎるのかもしれません。もっと、多くの、異なる年代、文化背景を持った人たちによる「スピーチ」を「吟味」する機会があってもいいのかもしれません。

次に気になったのは、「引用」です。昨年の過去ログにも書いていますので、そちらも併せてお読みください。
序盤・中盤・終盤
と大きく三部に分けるとしましょう。そのうち、

序盤で偉人のことばや諺の引用をし、中盤で持論に引き寄せ、終盤で、今度は別の偉人のことばや諺を引用する。

という構成になっているスピーチが気になりました。聞き手としては、序盤の「偉人A」と終盤の「偉人B」との関連性・共通点がよくわからないまま、「勢い」「雰囲気」で引っ張られていくような印象です。複数の引用をするのであれば、それを「消化吸収」し「昇華する」ような「自分のことば」を語らなければ、自分のスピーチにはならないのではないでしょうか?

また別の構成を持った、こんなスピーチにも聞き手として「?」を感じていました。
Hook を経て、主題へと進んでいきながら、そこで「歴史的事実」とか「文化的背景」、「人、物などの固有名詞」の説明が長々と、人によっては1段落くらいも、続いてしまうのは考えものです。確かに、スピーチの中には、”informative speech” というものがあってもいいでしょう。しかしながら、この「弁論大会」でのスピーチで求められているのは、歴史の教科書の読み聞かせではないでしょう。著名人を扱う、引き合いに出す、という場合でも、伝記や追悼文はふさわしくないように思います。ここでも、語るべき「主題」が十分に練られていないことが伺い知れます。

午後の暗唱の部も終えて、審査結果発表の前に、各ジャッジのコメントがなされました。最後に「審査員長」として私から、日本語で今述べたような内容に加えて、音声・発声での注意点(ピッチが高くなりすぎないように、口先だけでなく、自分のからだに声が響くように)を簡潔に伝えました。
その際に、ある1冊の本を紹介しました。

『ティーン・エイジャーの夢:高松宮杯全日本中学校英語弁論大会 (1949-78) 入賞論文集』(研究社出版、1979年)

高円宮杯の前身、高松宮杯時代の初回から30年の歩みが分かる、貴重な論文集です。1978年というと、私が中学校3年生の時。当時の私は、そのような全国規模のスピーチコンテストがあることさえ知りませんでした。そりゃそうです、中3の11月になってから英語の勉強に身を入れ始めたのですから。その意味では、地区予選を通り、県大会に進んだスピーカーたちは、そのことだけで、もう素晴らしい位置に立っていると言えるのでしょう。

しかしながら、私が気になったのは、閉会式後、「全国大会への切符」を手にした人たちも含めて、参加した中学生も、その指導者も、保護者も、誰一人として、私が紹介した「論文集」の内容や、タイトルに興味関心を示さなかったことでした。30年以上前の中学生、60年以上前の中学生が、どんなことに興味関心を持っていて、どんな英語表現を使っていたのか、誰一人として、私のところに来て、「ちょっといいですか?」と尋ねる人がいなかったことが帰路ずっと気になっていました。

スピーチコンテストに出場する人たちは、「自分の『英語』を聞いて欲しい」という思いも強いのだと思いますが、それよりも、「自分の『スピーチ』を聞いてもらいたい、『自分』を認めてもらいたい」という思いの方が強いでしょう。ことばを生業とするものの一人として、その気持ちはよく分かります。
では、その人たちは「他の人のスピーチ」はどのように聞いているのでしょうか?
コンテストの出場者は、自分の準備に夢中で、他のスピーカーのスピーチを聞いて感心したり、異論を持ったり、などという余裕はないでしょう。順番の遅い人なら、なおさらです。でも、観衆として会場に来ている人、出場者であっても、自分のスピーチも終え、コンテストも終わった、その後であれば、また異なる展開が開けるだろうと思うのです。
中間テストが終わったら、期末テストの対策に躍起になり、入試が終わったら、もう、そこで読んだり聞いたりした英文素材には何の関心も示さないような「お受験マインド」を私はよく批判していますが、そのマインドとパラレルな「スピーチコンテストマインド」とでもいうようなattitudeが見られはしまいか、かなり気掛かりのまま一週間が過ぎました。

他の人のスピーチから少しでも学べるところはないか、という発想や着眼点でスピーチを聞くことができなくても、「聞き手」としてそこに「いる」のであれば、「ああ、面白い話だな」とか、「うわー、それは考えたことなかったわ」とか、「そうそう、それって、あるある」などと、「聞き手としての存在」を果たしていると思うのです。そして、そういう「聞き手」の意識から、「話し手」「書き手」へと立場を移した時に初めて、自分のスピーチをもっとよくしたい、という思いを自覚し、「よりマシ」な英語表現、「よりマシ」な構成、「よしマシ」な主題を、という自らの「表現欲求」と向き合えるような気がします。
そんな思いを込めて、練り上げられたスピーチは、聞く人の共感を呼び、感動を生み、記憶に長く留まるのではないでしょうか。
来年は、もう私がジャッジでは呼ばれることはないかもしれませんが、この「コンテスト」で、これからも豊かな声、素晴らしい感性が、会場に溢れることを願って止みません。

本日のBGM:See You Again (アンチモン)