♪月のない夜に人の子供の形をして「それ」はやってくる♪

tmrowing2014-10-02

前々回のエントリーで、大阪の高校入試改革案サンプル問題を取り上げました。今回の大阪の「英作文」「ライティング」のサンプル出題のような問題を見て、「和文英訳など、他人から与えられた内容を言わされる、書かされるものではなく、自分の考え、意見を言う、書くものである」という点を評価する人がいるようです。見かけの「こみゅにかてぃぶ」な形式に惑わされることなく、本当に「英語の表現力」を見ることができる出題かどうかを検討するのが当事者の役目であり、専門家の目利き、腕利きの見せどころでしょう。
「意見を書かせ、理由付けさせれば論理的な英文表現になる」というのが、いかに短絡的な思考に基いているか、実際の「解答例」を取り上げ、その不備を指摘し、「お題」設定の改善までを見据えた訴えでもありました。このサイトには「応援メッセージ」の動画へのリンクが張られていたのですが、この方たちは、ご自分の目でこの出題と、その解答とを見比べた上でメッセージを発しているのか、訝しく思います。

改革案などと言っても、現状のこれではダメ。もっと頑張れ!

という意味での応援ではないでしょうから。

今回は、「四択」や「穴埋め」などと呼ばれる多肢選択の空所補充による英文完成問題を取り上げます。

Choose the one word or phrase that best completes the sentence. Write the number which corresponds to your answer.
(1) The child (空所 ) in the park is my son.
1. play
2. plays
3. played
4. playing

この第1問を実際に高1と高3にやってもらいました。正答率は100%。高3だと2秒位で終わります。誰も間違えません。でも、この問題で正解として得られた文から、さらに問いかけをすると「?」が続出しました。

  • The child playing in the park is my son.

この文は、「いったい、誰が、誰に対して、どんな場面で、何を目的に」口にする文なのか?まさか、書いたりはしないと思うのだが?

この「発話」が為される場面を「絵」にも描いてもらいました。

写真 2014-09-30 11 27 38.jpg 直

  • 公園の脇にいる二人の会話の一部。
  • 公園には子どもが一人。

この絵に対しては、私がさらに質問しました。

  • 対話している二人はどこにいるの?

公園の脇にいる二人にとって、公園と他の場所との識別は不要なのに、なぜ、”the child playing in the park” とわざわざ言っているのでしょうか?

  • “That child (you see over there) is my son.”

と指を指し示したりすれば済むのでは?

  • “The child playing with a soccer ball is my son.

何をしているかを描写することで、他の子どもとの識別を図るなら未だ理解できますけれど。

次の絵だと、話をしている二人の位置が曖昧。更には、そこが「公園」なのかどうかも曖昧。

写真 2014-09-30 16 26 43.jpg 直

次の絵は、トラックの絵に「パンダ」とか「アリ」の絵でも描いてあると、場面がよりリアルに感じられたでしょうけれど、これでは、”the children playing in the park”になってしまいます。

写真 2014-09-30 11 28 03.jpg 直

ここでの私の疑問は、

  • 何故、現在分詞の後置修飾でthe child を限定しているのか?
  • なぜ、”in the park”を言葉にして言う必要があるのか?

ということ、さらには、

  • “…is my son”という「新情報」「焦点」を導く「旧情報」「前提」とは一体何か?

ということです。

the child という必然性があるのは、「他の子ども(たち)」の存在が前提としてある場合でしょう。”in the park” の必然性は、”in the gym” とか、”in the classroom”とか、「その他の場所」との対比になるでしょうか。"the child dancing in the gym" と "the child reading in the classroom" などの候補から選んでいるような状況なら、多少必然性は高くなるでしょう。
それに比べると、”my son”は結構奥が深いですね。 単純に考えれば ”Who is your son?” に対する答えとなるのが「普通」です。ただ、”son”に強勢が置かれていれば、「見た目は女子っぽいかもしれませんけど、実は男の子なんですよ」とかいう場面が考えられるでしょう。(今日のエントリー冒頭の写真は、谷川俊太郎・詩、田淵章三・写真『子どもたちの遺言』(佼成出版社、2009年)の、pp.24-25をこの項目の比較検討の参考に選んで写したものです。)
あとは、ちょっと突飛ですが、「普通に考えたら、私の孫にあたるであろう年格好の子供だけれども、孫ではなく、息子なんですよ」などというような、聞き手との「ギャップ」「コントラスト」を示すことも可能です。
さらに、 “my”に卓立が生じているような場合には、「他でもなく、私の血を分けた子どもである『息子』である」とでもいうような、際立って強調すべき意味が現れてくるでしょう。

私が最初にこの文を「完成」させた時に頭に浮かんだ絵は、

行方不明で捜索中の息子と思しき少年が映っている動画を複数見せられている父親と捜査に当たっている警察関係者

でした。TVドラマの『相棒』では、よく防犯カメラなどの映像を見比べるシーンがあったりしますから。
例えば、こんな情報をもとに集められた動画が複数の候補として、父親の前にある、というような場面。

年の頃は6歳くらいで短髪。当時はニットキャップに赤いポロシャツ、半ズボンを着用。ポロシャツ襟は立てて着ていることが多い。子供にしては、足のサイズは大きい。

しかしながら、「公園」と分かるためには、結構引きで撮影する必要があり、その時に一人で遊んでいるのは不自然だと思うのですよね。一人で遊ぶとすれば、砂場?ブランコ?そうなると、やはり、具体的な場所を特定するだろうから、”in the park”というのは、少々一般的に過ぎる描写となるように思うのです。

  • "the * playing in the park" site:edu

などで「愚愚って」みても、直ぐにわかると思いますが、

  • “名詞+playing in the park”

という「生息域」で見つかる名詞は「複数形」が多いでしょう。そして、複数形であっても、playing の後に具体的な活動がイメージできるような言葉が続くか、もっと具体的な「活動」を表す動詞の -ing 形になるように思うのです。

なんというのでしょう、もう、言葉に対する「感性」っていう「コトバ」を使ってしまいますけど、その「感性」が貧しい出題です。言語観というかコミュニケーション観が貧弱。

確かに進学校に入学するような人は、ほぼ全員が、数秒で通過し、正答も得られる問題でしょう。でも、「その問題に正答した誰の頭にも、もっともらしい絵が浮かんでこない」文って何?申し訳ないけれど、この出題をした、英文を拵えた人さえも、「ことば」を全然生きていないように感じられます。
そんな、適当に分かったことにして「効率よく」情報を処理して先に進んだり、 「モノ」の操作をどんなに条件反射よろしく「自動化」したりしたところで、英語が自分の「ことば」にはならないでしょ?スコア換算?バーレスク未満の茶番ですよ。

私は、文科省の進めてきた「コミュニケーション能力重視」の政策・施策の全てを批判するつもりはありません。ちゃんと、”communicative” な "utilitarian goals" があり、それを満たしているのなら結構です。私が批判しているのは、一見「こみゅにかてぃぶ」な「体裁」を整えている、カタチは取り繕っているけれども、実質「英語ということばの運動性能」や「ことばの生息域」に無頓着な教材や授業、テストを流通させ、普及・啓蒙してしまうことです。このことが事態を、問題を、より深刻にしていると思います。

結局、このサンプル出題の作問に関わっている人たちは、「ことばのテスト」をその程度の「モノ」としか考えていないということが、一番の問題なのです。どんなに「難易度」を上げ、「解答に当たっての処理速度」を上げたところで、「生きていない」のだから「豊かな感性」を備えた生徒が本気になって取り組みたいと思わないのも無理からぬことです。

大阪府教委の「学事」担当者には届かないかもしれないけれど言っておきます。

「指示文を含め、問題文はすべて英語で構成しました(注釈語のみに日本語使用)。」

って何か大層なこと言っているつもりなんでしょうか?
指示文を全て英語で書くこと以前に、「問題」となる英語を、意味のある、人が話したり書いたりする、「生きたことば」にして下さい!

高校入試の問題に対する「注文」ということでは、こちらの過去ログの「千葉県」の出題も併せてご覧ください。

Wait your turn.
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20140305

さて、
高校入試問題での、-ingの使い方に苦言を呈した訳ですが、先日来、動名詞などの –ing形と不定詞との指導法について考えていました。「コア」とか「イメージ」とか「フィーリング」で、独自の理屈を捏ねるのではなく、先行研究にも当たってみました。私が、この<-ing形>と<to原形>という項目を考えるときに真っ先に浮かんだ研究者は、

  • Frank R. Palmer

  • Patrick J. Duffley

の二人でした。
私が高校の教壇に立ったのが1986年。1985年に出たCGELは最初のボーナスで買い、それまでに持っていた多くの『文法書』との比較で、一年足らずで下線、書き込み、付箋がつきまくっていました。

Palmer のThe English Verbs, Longmanの第二版が出たのが、1987年。教師になって二年目、授業への意欲が空回りしがちな時期に買い求め熟読しました。(その同じ年に、G. Leech のMeaning and the English Verb, Longman の改訂版が出たと記憶しています。)

Palmer の物言い、筆致で面白いなぁと思ったのが、日本の文法書や語法書では、<be to原形>などと称されることの多い文法項目・表現を、

  • IS TO

としてまとめていたことです。(pp. 160-161)
当該セクションの冒頭だけ引いておきます。

8.1.2 IS TO
There is a set of forms am to, is to, are to, was to and were to, which functions rather like modal verbs:

  • He’s to come tomorrow.
  • You’re to be congratulated.

The set does not, however, contain any non-finite forms: there is no *be to, *being to or *been to. It is, therefore, inappropriate to refer to the verb BE TO; instead it will be referred to as IS TO.

こういうところが好きでしたね。

Duffleyは、1992年の The English Infinitives, Longman で出会いました。それ以前、にこの人の著作や論文を読んだことがなく、これ以降もしばらくは気にしていませんでしたが、L1の子どもの発達段階も調査した上での、意欲的な考察であり、随分お世話になった感はありました。所謂「不定詞」について、私が何か考えるときには、やはり根っ子になっているように思います。こちらに引っ越してくるときにも、持って来たはずなのですが、見当たらずに困っていたところ、2006年刊の、

  • The English Gerund-Participle: A Comparison with The Infinitive, Peter Lang

を入手したので、十数年の隔たりを埋めるべく読み進めているところです。

この、Duffley (2006年)で興味深いのは、動詞の補部(目的語も含む)として-ing形をとる動詞の意味における分類と考察です。

  • verbs of effort
  • verbs of positive and negative recall
  • verbs of liking
  • so-called aspectual verbs

Brownや LOBなどの伝統的なコーパスだけでなく、BNCなど最新のコーパスから得られるデータも含めて、豊富な「実」例をもとにして問題点を整理していきます。拙速な結論に飛びつくことを自ら戒めるかのような、第3章のまとめの最後の部分から引いておきます。

This is due mainly to the nature of the direct object function of the -ing form, and the widely varying implications which can be derived from representing an event as ‘remembered’, ‘enjoyed’, ‘considered’, ‘mentioned’, etc. Working these out requires careful attention to the lexical content of each verb-type (and each verb within these types) and there are many of these that still remain to be investigated. Nevertheless, the positive results obtained from the application of the hypothesis to the verbs discussed in this chapter, which belong to very different semantic types, is solid evidence in favor of its plausibility. We now turn to a very different use of the gerund-participle and the to-infinitive in order to further test the explanatory value of its framework―-their occurrence in the function of subject of finite verbs. (p.124)

参考文献を見ていて、気づくこともあります。
この書でDuffley は、PalmerのThe English Verb (2nd が1988年になっています) や Langacker のGrammar and Conceptualization (2000年) は視野に入れているものの、Michael Wherrityが2001年に出した博論(?)、

The Gerund/infinitive Contrast in English Verb Complementation. Doctoral thesis, Graduate School of Education, Rutgers University, New Brunswick, N.J.
http://assets00.grou.ps/0F2E3C/wysiwyg_files/FilesModule/all4english/20101003183721-kmkjfpsfidnocfkar/gerund_infinitive.pdf
(UMI Dissertation Express: http://disexpress.umi.com/dxweb/)

などは、(私は、コンパクトながら面白いと思っていましたが)Duffleyの目には止まっていないのか、参考文献には全く入っていないのですね。
Wherrity の次のテーブルは、やや恣意的というか、ご都合主義的な感じもしますが、その分とっても「わかりやすい」分類になっていると言えるでしょうか。

Wherrity_2001_ table_1.png 直

因に、Wherrityは、最近(2014年)、共著で、

Granath, S., Wherrity, M. (2014)
"I'm loving you - and knowing it too": Aspect and so-called stative verbs.
Rhesis: Linguistics and philology, 4(1): 2-22
http://www.diva-portal.org/smash/get/diva2:704600/FULLTEXT01.pdf

というこれまた面白い論文を出しているので、この分野に興味のある方は楽しめるのではないかと思います。

今シーズンは、「十年前、二十年前に既に研究済み」とか「そんなの当たり前」と思わずに、もう少し「文法事項」を振り返り、掘り下げてみるつもりです。

本日のBGM: 怪物(ハンバート ハンバート)